今晩はひとつぬけてます。只今、衆議院予算委員会を見ております。そして、今夜は靖国の御霊祭。久々に筆をとる代わりに、親指を括っております。
なぜ、しがない丼屋の親爺が自分の商いと何等関係のない話を長々と、自らの店のホームページに載せているのか? 皆さん不思議にお思いでしょうね。
先ずもって挙げれば、靖国、強いては英霊にたいするマスコミ、一部の識者と云われる方々の靖国批判に対する義憤、これが第一。戦後七十年にもなろうとしておりますのに、たった数ヵ国、中国、北鮮、そしてどおにも、自国の首を己で絞めはじめた韓国。この三か国。それとユダヤ人社会の米国も同様。彼等と呼応し日本人なのに、この国を貶めたい日本人がいること。朝日、毎日、TBS、先日までのNHK。大江健三郎など進歩的文化人と呼ばれる人。そして、小沢一郎、加藤紘一、河野洋平等の政事屋。彼等に共通するのは、反天皇家、反原発、反靖国。そして日本は侵略国家であるという主張。どれもこれも、一番喜ぶのは、中国や韓国。
自分が小さい頃、回りの大人で、日本が侵略国家で、あの戦争は侵略戦争だ!なんて言う大人はいませんでした。それが証拠に自分達があの頃に夢中になって、作ったプラモデルは戦艦大和であり、零戦であり、飛燕でした。少年漫画でも「紫電改のタカ」、「暁戦闘隊」など戦記物も随分と読みました。映画も「トラ・トラ・トラ」、「日本の一番長い日」、少しくだけ「兵隊やくざ」、「拝啓、天皇陛下様」あの戦争を舞台にした作品は沢山ありましたね。それから、土曜か日曜の夜に太平洋戦争のアニメをやっておりました。たぶん、7時台だったとおもいますが、ミッドウエイ海戦の時の「飛龍は健在なり」との電文は、まだ耳にのこっております。それと同時に「人間の条件」や「きけ、わだつみの声」のように、左がかった作品もあったのも事実です。たぶん小学生の頃、昭和40年代でした。余談になりますが、人間の条件の中で、中国共産党の兵士、八路軍がでて来る場面があるんですが、やたらと八路軍の兵士が優しい正義の味方に演出されていました事をまだ良く覚えています。あの 戦争に関しては、負けはしたけど、アメリカ相手に日本は勇敢に戦ったんだ。自分はそう思っていましたし、回りの大人、自分の両親も同様でした。
これも良く聞いた話ですが、海外でドイツ人と会うと「こんどはイタリア抜きでやろうな!」と言われ、大いに盛り上がったなんてことを大人達は愉快そうに話ていました。
別段、私及び私の回りの大人達が過激であった訳ではありません。渋谷、上野あたりに行けば傷痍軍人が募金箱を前に、よくハーモニカを吹いていらっしゃいました。母方の親戚が集まれば、輝夫叔父さんは零戦に乗っていたとか、戸口の叔父さんは憲兵だったとか、そんな話をしていました。小学校の同級生でS君という子がおりました。彼は中学から武蔵に入った秀才です、自分なんかと出来の違う子でしたが二人でよく遊んだのが兵隊さんごっこ、片方が日本軍、片方がアメリカ軍。もう一人、Hさんという女の子は、西澤君、兵隊さんごっこやろうよ。なんて家に遊びににきました。彼女も中学からお茶の水に行きましたから、なかなかの才媛でした。自分としては、兵隊さんごっこよりも、お医者さんごっこ、したかったのに。
中学時代は、運動部はサッカー部、週一の文化部は将棋部でしたが将棋なんてまともに打つ訳ありません。皆で軍歌とか春歌とか歌ってました。同級生の一人が喧嘩なら東京で一番といわれたK高校に入りました。彼等は一年生から三年生まで集団で、電車の路線ごとに登校するそうです。我々の地元は、中板橋、常磐台あたり、彼等は東上線一家と名乗り、年に一度は一家をあげて靖国に参拝したそうです。また、地元には、走る暴力団といわれた喧嘩専門のGという暴走族がおりました。彼等は濃紺の特攻服を着用していまして、その胸に詩集、いや刺繍は、尊皇愛国とか、護国尊皇とかでした。勇壮な言葉でした。
それと年に何回か、12チャンネルで懐メロの番組をやってましたが、鶴田浩二さんが海軍の軍服を着て、「同期の桜」なんかよく歌っていらっしやいました。新宿には、国民酒場?なんて名前の大衆酒場があって軍歌が流れていた気がいたします。
共産党や社会党それらのシンパは、自衛隊は違憲なんていってました。後、うろ覚えですが、共産党のポスターに、松本清張、手塚治虫さんなんか、私は日本共産党を応援します。の言葉と共に載っていたような記憶がありす。これらが昭和40年代から50年年代中頃までの自分の回りのあの戦争に対する空気でした。 本当の意味であの戦争を知っている人はもう殆んどいらっしゃいません。戦地に行ったり内地で体験なされた方々はいらっしゃいますが、何故あの戦争に巻き込まれていったのか、身をもって体験していなければあの戦争を知っていることにはならないそうです。
では、戦後すぐ、昭和二十年代にあの戦争を身をもって体験した方々は靖国や戦犯と言われる人々に対して、どうゆう思いであったんでしょうか。
昭和二十七年、サンフランシスコ講和条約が発効されました。同じく六月より、全国一斉に、戦争受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願書の署名運動が始まります。当時の人口数約6700万人、署名はなんと4000万集まったそうです。勿論、人口数の中には子どももふくまれますから、殆んどの大人が賛成したことになります。その後、12月の第五回衆議院本会議では「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議を与野党一致で可決。遺族援護法も可決され,刑死した戦犯のご遺族に年金を支払うようになりました。この時に、尽力なされたのが、社会党の堤ツルヨ議員達でした。当時の社会党にはまともな議員さんがいらっしゃいました。
前回でも申しあげましたが、A級戦犯であった重光葵は、外務大臣に返り咲き、日本が国連に加盟した時に「日本は東西の架け橋となる」の演説で喝采を浴び、国連本部の前庭に自ら日章旗を高々と掲げ、こう詠みました。「霧は晴れ国連の塔は輝きて高く掲げし日の丸の旗」、また、重光葵氏が亡くなったとき、国連は黙祷したそうです。A級戦犯に国連が黙祷です。講和条約においては、そして国内においては、昭和28年の「全戦争犯罪者の名誉回復の立法」を与野党万票で可決。この瞬間より我が国に戦犯は存在いたしません!これは靖国がやたらと遡上に挙げられる上でまた我々の戦後史感の中で大変重要なことです。国会において靖国や戦犯をうんぬんするのであれば先の法案を国会において廃案にしてからでなければならぬ話です。付け足させていただきますか、同じくA級戦犯の岸信介は総理大臣に、加谷興宜は法務大臣になりました。