敷地内にある神社にお参りし英霊にご挨拶の後に史料館に入りましたら、随分と若い方々がいらっしゃいました。
隊員達お一人お一人の写真、そして遺書が展示されております、その一つ一つに目をとおしますと、目頭が熱くなるのは私だけではないでしょう。ほとんど皆さん二十歳そこそこです、一番若い方で17歳。十分な訓練もつまないまま、重い爆弾を抱いて二度と踏むことのない陸地を離れる時に何を思って逝ったんでしょうか。
一枚の写真があります。出撃前の隊員達が仔犬を抱いて笑っていました。鹿屋でも8月15日終戦を知って司令官と共に沖縄に飛んだ隊員達もいます。彼等の出撃前、軍用トラックの上で談笑している写真があるんですが、やはり皆、笑っているんですね。決意とか決心とかではありません、ましてや悲壮感でもありませんでした。全くの自然体です。作家の山岡荘八氏が海軍報道員として鹿屋基地で特攻隊の隊員達と生活を共にしていたそうです。
山岡氏は、彼等は必ず近日、死ぬことが決っている。それに底抜けに明るい。接すれば接するほど離れがたい美しさを秘めている。彼はその謎をどおしても知りたかったそうです。この疑問を大分師範出身、二十二歳の西田高光中尉にぶつけます、彼はその時、教え子の手紙に最後の返事をかいていました。この戦を勝てると思っているのか。もし負けて悔いはないのか。今日の心境になるまでには、どんな心理の波があったかのかなど、当時は決して口にしてはならない禁句を次々に浴びせる山岡氏に、西田中尉は重い口調でこう答えたそうです。「現在ここに来る人々はみな自分から進んで志願したものであること。したがってもはや動揺期は克服していること。
そして最後にこうつけ加えた。「学鷲(特攻隊員)は一応インテリです。そう簡単に勝てるとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです、おわかりでしょう。我々の生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながってますよ。そう、民族の誇りに。」彼が500キロ爆弾と共に大空に飛び立って逝った時、山岡氏は見送りの列を離れ、声を上げて泣いたそうです。息子にあうために中尉の母が基地を訪ねたのはその翌々日でした。
さて話は少しそれましたね。知覧はきれいな武家屋敷でも有名です。ここでも不思議な体験をしました、いつかまとめてお話しましょう。知覧を後にしますといよいよ帰り支度レンタカーを中央駅近くでお返しして、ともかく生ビールを飲める店をさがし、一息。場所はお寿司屋さんでした、鹿児島のお醤油は甘いんですが、二種類用意してくれました。鰹には甘い醤油が良いと思いました。食事もそこそこに芋焼酎をさがしに行きます。先月、横浜高島屋の催事場て知り合った焼酎維新館さんを訪ねます、鹿児島だけで芋焼酎が四千種類だそうです。気がとおくなりそうなのでおまかせにいたしました。
そしてお土産を購入、リムジンにて空港へ。まだ食べ足りないので空港にてかつ定食と晩酌セット。味噌汁のうまいことうまいこと。さすが枕崎!てなわけで鹿児島の旅。「熊五郎漫遊記」はこれにて幕となりました。あー九州はよか!