共産主義を推すアメリカに我が国は負けました。日本の軍隊が武装解除され、引いたあとに、支那大陸、朝鮮半島は、あっという間に、赤化されましたね。我が国が、日清、日露、支那事変、満州建国と支那大陸や朝鮮半島において軍事力を行使したのは、紛れなく安全保障、国土の防衛の為であります。
南下政策をとっていたロシア、そして、革命によって産まれたソビエト。満州建国などは、その最たるものでしょう。若い頃に満州建国を立案、実行した、関東軍の参謀。石原莞爾に関わる本を読んだんですが、なぜ、満州を建国したか?一は、在満の、自国産業および在留邦人の権益並びに安全確保によるもの、五族協和、資源調達、そして、ソビエトの南下への備え。世界大恐慌によって、食べていけなくなった国が新天地を求めたのでしょう。当時の独立国は、40数ヶ国だったそうです、その半数近くの国が、満州国を承認したと。その中には、あのローマ法王を頂く、バチカンも含まれます。バチカンは反共ですから。
戦後、病に臥していた石原莞爾を連合国は極東軍事裁判の参考人として、聴取致しました。石原莞爾は、連合国の判事にこう尋ねたそうです、
「いったい日本の戦争責任はどこまで遡るのか?」
判事はこう答えました、「日清、日露まで追及するだろう。」
石原は切り返します、「そうか、ではペリーを呼んでこい、我が国は徳川の時代より、300年にあまり、鎖国をしてきた、それを貴国のペリーが黒船に乗りやってきた。そして砲門を向け国を開けと迫った、先ずはペリーを呼んでこい」 「満州を造ったのは、自分である、自分は立派な戦犯である、法廷に呼べ!」
頭脳明晰な石原莞爾に法廷において、アメリカ悪玉論を展開されるのを恐れたかどうかは、わかりませんが、石原は極東軍事裁判の被告にはなりませんでした。 蛇足ではありますが、満州建国の際に関東軍の石原の上官でありました、板垣征四郎は戦犯とされ、刑場の露と消えました。全く話は外れますが、世界的な指揮者の小澤征爾さんのお名前は、石原莞爾と板垣征四郎から一字づつ頂いたそうです。侵略とされた満州建国を実行した、二人から、名前を重ねた小澤さんが日本を代表する指揮者になったのも興味深い逸話ですね。
確かに人の国土に軍隊を駐屯させ、商売を始めたんだから、今の常識からすれば、侵略者となるかも知れません。が、あの当時の地球儀をぐるっと回せば、アジアの中で独立国は、我が国と、タイ 少し離れてトルコぐらいでしょう。あとは全て植民地です。支那は列強によって虫食い状態。香港島には少し前までユニオンジャックが翻り、チンタオはビールで有名、皆さんご存知ですね。
あの頃は戦争で負けた国は、言葉は悪いけれど、おとしまえをつけさせられたんです。賠償金を払い、領土を割除されました。、さきの大戦で戦勝国となったアメリカの基地が、日本のそこかしこにあるのと、一緒です。
お若い皆さんは侵略と聞くと、いかにも、軍事力をもって、わーっと攻めたような感を、受けると思いますが、全く違う話です。
当時の幣原喜重郎内閣はいくら、コミンテルンに操られれた支那に挑発されても、事変不拡大の方針を貫いてました。