峠より朝日をのぞむ。

史の本を読みました。その中でも繰り返し読んだのが、司馬遼太郎さんの「峠」。 幕末の越後長岡藩の家老、河井継之助の話。薩長と徳川のどちらにつくのか?どの藩も悩んでおりました。継之助の長岡藩は徳川十七将の一人牧野家。時代の趨勢は薩長方にありましたが、長岡藩は譜代大名、簡単に徳川家を裏切るわけにはいきません。そこで継之助が実行したのが、武装中立。僅か七万石の長岡藩に近代的な武装を施し、徳川にも薩長にも与しないというものでした。藩内を一本化するために、強権も発動いたします。そうしますと、とうぜん反発する勢力も現れます。その総大将があの「米百俵」の小林虎三郎。継之助と虎三郎は実は親戚でしたがそんなことはお構い無しに虎三郎は継之助の政策をケチョンケチョンに藩内でけなします。
ある晩に虎三郎の家が火事で燃えてしまいました。焼け出された虎三郎は妻の実家に仮住まい、これを機会に彼の心を溶かしたいと考えた継之助は当座の生活用品を山のように荷車に積み上げ見舞いにいきます。虎三郎は継之助の好意に一も二もなく涙を流し感動いたします。普段は小林家に追従するもの達が無心されると思い、あの火事以来誰もよりつかない。なのに藩内に知れ渡っている不仲のおみしゃんが、おのれの財を割いて恩を与えてくれた、これをどう感謝すればよいか。「なーんだ、虎三郎もたいしたことはないな。これで静かになるだろう。」 継之助は、そう思いました。が、ちがった。虎三郎は膝を正してこう言います。「これほどの財物を頂戴しても、お返しできるものが無い。ついては足下の物の考え方、施政、人の使い方に大きな誤りがある。それを申し述べて、このご恩情に対する御礼としたい。」
その後、長時間にわたり継之助のやりかたを、いちいちあげて痛論し、間違っていると叫び、さらに欠陥をえぐり、刺すような論評を加えました。その激しさ、痛烈さは気の弱い者なら卒倒するほどだったそうです。これがお礼なのです。さて、一方の継之助。彼は向かっ腹をたてながらも「偉い、どうにも虎は偉い」よほど興奮したらしく感動した継之助は町中をほっつき歩き何人かの知人に、虎三郎の偉さを話て回ったそうです。仇敵である継之助から窮迫中に物を恵まれてもいささかの卑しさもみせずに「これはお礼である」といって、こっちの頭が割れそうなくらい痛烈な批判をした。
「どうだ、この卑しさのなさは。」継之助の感動はそこにあったようです。人間が偉いということは、こういうことだ。
孟子の言葉に「いかに威武ある存在からおどかされても、心を屈せず、いかに貧乏しても志を変えたりせぬ男を偉い男という。」
さて前振りが、かなり長くなりました。朝日新聞という会社があります。南京大虐殺、従軍慰安婦など随分のご活躍をなされました。最近になり、やっとこさ従軍慰安婦は偽りの報道だったと今更認めました。お蔭様で隣国はいまだに謝罪を求め、同じ日本人が国連においてもこの問題を騒ぎたて、米国議会においても我が国は無実の罪をきせられました。その責任を認めたかのように思われるましたが、ここのところ、文春、新潮さんの広告を拒否。皆さん、これが大蛇族の正体。嘘八百を並び立て国家の尊厳をおとしめる。都合が悪くなると強権をはっする。まるで隣国と一緒の反応。筆でメシ食ってんだたら筆でかえせ。ホントずるいんですよ。大蛇族。