先日、小野田寛郎さんが亡くなりました。自分のように何時も靖国に心を寄せている人間にとっては、かけがえのない方でした。
終戦後もルバング島においでゲリラ戦を展開、友軍の再度の上陸まで戦いぬくおつもりだったそうです。陸軍中野学校を出ているため職業軍人と思われていますがそうではありません。中学を出て支那の漢口で貿易商社に勤めていたそうです。その頃の小野田さんは英国製のスーツをきて外車乗り回しダンスホールに入り浸っていたとおっしゃっていました。二十歳で徴兵され内地に戻り陸軍中野学校へ回されます。この学校は諜報員を養成する学校です。中野学校の教育方針は「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥をさらしても生き延びよ。できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂である!」ですから彼は何度も家族がルバング島に呼び掛けに来てもその姿を見せることはありませんでした。昭和49年3月9日、元上官である谷口少佐命令を受領し三十年の戦いにピリオドを打ちました。 日本に帰ってからの小野田さんはマスコミの壮絶な取材合戦にさらされます。ご本人いわく、「私は軍人精神の権化か軍国主義の亡霊かのどちらかに色分けされた。同じ時代の人々も、それぞれ命じられたところで戦った。散華もした。国民全てが爆撃や銃撃にさらされた。おびただしい命や財産が失われた。その意味では一億総武装の時代であった。それなのに、なぜ私だけが、権化や亡霊として世論の俎上にあげられるのだろうか。私はただ少し遅れて帰ってきただけの男である」。
そんな時に田中内閣から100万円の見舞金が届きました。マスコミからこのお金をどう使うのか尋ねられ、靖国神社に全額奉納いたします。と答えたところ、又々非難の手紙がどっときました。なぜ祖国の為に戦って命を落とした戦友に礼を尽くしてはいけないのか、私は生きて帰り仲間は戦死した。私は戦友たちにお詫びし、心の負担を軽くしなければこれからの人生を生きていく自信がなかった。「散る桜、残る桜も散る桜」私は三十年の戦場をそんな心境で生きてきた。
万事、カネ、カネの日本に絶望感を覚えた小野田さんはやはり自分の小学生の娘に「特攻隊は犬死だ。」と教えた教師に憤りを覚えブラジルに行った兄を頼って日本を離れました。その後、農場を経営なされ成功されま昭和五十五年の金属バット事件にショックを受け「財団法人小野田自然塾」を設立なさいました。
人間一人では生きていけない。家族が一番大事だ。そうおっしゃっていました。