東日本大震災について

今回は先週の九州旅行のご報告をするはずでしたがこの度の大震災について思うことあり、内容を変更させていただきこの未曾有の惨事について述べさせていただきます。

日本は先の大戦に負け60余年を過ぎました。主に米国の主導のもと民主国家として国際社会の一員と復帰しその後の経済復興はまさにそう世界の奇跡とよばれました。そんなことは私が偉そうなことをいわなくとも皆様ご周知の事実です。それもこれも日本一人で成し遂げたものではありませんアメリカという世界一の用心棒がいたからです、それとこの国の人々の勤勉性とか貧しくとも心豊かにあろうとする戦前の価値感が作用していたと思います。

そうして私の父もそうですが家族のために一生懸命働いてくれました。

私の実家板橋でしたが家の前に広美荘というアパートがありました。

ターチャンという年下のともだちがおりましたがかれらは多分6畳一間にすんでいとおもいます。

そのうちに郊外に一軒家を買い引っ越していきました。貧しくともそれなりに一つの仕事を真面目に続けていればなんとかなった時代でした。

それが昭和40年代ごろでした。そうして今からおもえば昭和で一番無難な50年代にはいっていきます。まだ私は中学から高校の頃でした、中学の頃はサッカー部でしたがまだ先輩後輩のけじめが厳しく今からおもえば戦前戦中の名残がまだまだ残っておりました。

練習前練習後には必ずグラウンドに「したっ!」と挨拶をします。もちろん先輩にあえば街中でも校内でも大きな声で「チワース!」と挨拶をします、先輩の機嫌が悪いとヤキがはいりました。もちろん殴る蹴るです。まだ13歳ー15歳の話です。あんまりひどいときには板橋警察がはいりました。それでも臨時ノ父兄会ぐらいあったくらいでたいしたおとがめはありません。

まだあの頃は戦前生まれの親御さんたちで先輩が後輩にヤキヲ入れるくらいたいした問題ではなかったみたいです。

まだ小さなころから、縦と横の社会を幼稚ながらたたきこまれました。

さて今回はながくなります。またつぎは次回に。

それと仲間内の連絡です。岩手のガンチャン生きてました!あの頃「ソウルトレイン」に集っていた仲間達、そして松島病棟の皆様、ガンキチこと岩間志津子は健在でした!

家は床上浸水したそうですが家族皆無事で釜石の病院で奮戦しております。本当に嬉しい声を聞かせてもらいました。頑張れがんきち!頑張れ東北、茨城!