三日坊主
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店長の勝手報告
四万十川最終章
四万十川の岩間沈下橋に行く途中は、道が細くて、すれ違いの時は難渋しました。うちの熊吉君の会社に、高知出身の方がいらっしゃいます、その方曰く「よく、四万十川に車、落ちてるんだよね。」。
高知の母なる四万十川に別れを告げ、高知空港へ。途中、恒例の日帰り温泉で汗を流し、飲みたくて堪らず、一刻も早く車を返して、ウーン、生ビール!!!のみたーい!!!!
市内に入る直前に、大雨に見舞われましたが、無事、龍馬空港に到着。ターミナルの居酒屋さんで、喉を潤しました。
旅行の醍醐味は、自分の感性を震わせてくれるものに、いくつ出逢えるか?いい旅でした。
この2日後、元町の釣り名人から、立派な鰹が三日坊主に届きました。
高知護国神社の英霊からの贈り物かな?





四万十川
四万十市に着きましたら、川沿いに上流を目指します。四万十川は、日本最後の清流と言われております。四国で最長の川。その上を47の沈下橋が通っております。
沈下橋とは増水時に、川に沈んでしまうように設計された欄干の無い橋のことですか。今回はガイドブックによく紹介されている、佐田と岩間の沈下橋を訪ねてみました。
車を走らせながら眺める四万十川は、悠然としており、高知の母のようです。
岩間では子供さん達が水遊びをしていたり、若い子達は、橋から勢い良く飛び込んでました。おじさんも、やりたかった!













四万十市の料理屋さん
足摺岬を散策の後、四万十川に戻ります。忘れておりましたが、昨日の昼飯は四万十市の料理屋さんで、地元産の天然物の鰻をいただきました。夏場でしたので、あまり脂はのっておりませんでしたが、美味しかった!それと、鰹の塩辛も!!





足摺岬
護国神社参拝の後、今夜のお宿、足摺岬を目指します。高知は実に広く、長きに渡り運転をしていない自分には、睡魔との闘いです。途中で奇跡の清流とよばれる、仁淀川の上流迄行こうとおもいましたが、どうにも時間が足りない。さわりだけ覗いてきました。
かなり上流に行けば、すばらしい景色に会えたのですが、なんせ時間がありません。一路、足摺岬へ。土佐湾を眺めながらのドライブは快適でしたが、途中、唐人駄場巨石群の辺りで急に深い霧に遭遇、晴天の中で現れた霧はホラー映画のようで、かなり薄気味悪い!暫くは、我慢の運転。やっと霧がはれたら、お日様が、顔を出してくれて、一安心。無事、お宿の、「足摺国際ホテル」さんに到着。
このホテルさんで、特筆すべきは、ナイトツアーと朝の散歩。ホテル主催、勿論無料。前者は灯台の展望台で夜空の星空を眺め、ガイドさんが使うレイザーポインターで、星座を確認、説明を受けます。初めて見た、天の川の素晴らしさは、生涯忘れません!!幾万の星が帯状に連なり、本当に川のよう!!!都会育ちの自分には、天の川を肉眼で眺めることが出来るなんて、思ってもいませんでした。残念ながら写真に納めることは、叶いませんでしたが、それでよかったかもしれませんね。
観測中、歓声があがります。流れ星が何度も見えたそうです。残念ながら、自分は?
毎度のことですが、旅先では疲れと酔いで、あっという間に寝てしまいます。
翌朝は、ガイドさんに連れられて、ホテルから海岸にある白山洞門まで、ウォーキング。武骨ですがチャーミングなガイドさん地元話を聞きながらの散歩も楽しかったです。洞門近くで、トンボの乱舞。写真では、見ずらいかな?









高知2日目
さて、高知2日め。ちょうど終戦記念日。
持参した靖国の御神酒とお榊を、高知護国神社に奉納に。朝からの雨は止み、境内に入ると、お日様が射します。









土佐っぽの一さんと25年ぶりの再会
高知城見学を終えて、ホテルに戻り、一汗流して、しばしの休憩。
N.Z時代に一緒に働いた、土佐っぽの一さんと25年ぶりの再会。ホテルのロビーに降りて行くと、一さんが待っていてくれてました。あとから聞いたのですが、妻の熊吉君はホテルに帰った時に、一さんを見かけたそうです。彼は、待ち合わせの一時間も前にホテルに来て、あれやこれやと、土佐のお土産物を自分達のために用意してくれました。ありがとう?。それと、オチャメな彼は自分達を、驚かそうと、変装して空港で待ち受けていたそうで、残念ながら、1便早く我等が着いたため、彼の思惑は空振りに終わりました。
再会の挨拶もそこそこに、ホテル近くの「おひろめ市場」に、場所を移します。
一さん曰く、土佐では昼から飲むのは、当たり前じゃき。こちらの屋台村みたいな所です。しかし、営業時間は、朝の7時から!!嬉しい場所じゃーあーりませんか。
鰹の叩き、地元民に人気の餃子、焼き鳥等をいただき、ビールをガブガブ飲りながら、N.Z時代の話が咲き放題、本当に楽しい一年間。人に言えない話しもありますが???
久々に会った一さんは、空手や柔道をやり、随分とムキムキになっておりました。
このあと、近くのラーメン屋さんで、締めの一杯。早起きと慣れない運転で、不覚にもうつらうつらと、なり、ホテルに戻ります。
一さん、本当によくしてくれて、ありがとうございました?うちの熊吉君もよろしくと言っておりました。又、会おう?











桂浜つづき
桂浜で焼き蛤を食べたら、しこたまビールが飲みたくなり、今夜のお宿に直行です。
車と荷物を預け、直近のコンビニで小宴。ホテルそばの、高知城を見学。
板垣退助さん、山内一豊さんの妻、千代さんのお出迎え。板垣さんはお若い頃、大変な暴れん坊だったそうです。。そして千代さんは賢き妻の鏡とされました。 自分は思いますよ。女がしゃしゃり出ず男を上手く立てれば、世の中、きちんと運びます。
そして目指すは、天守閣。汗だくで昇ると冷たいおしぼりを、ふるまって頂きました。ありがたい!









龍馬に会いに桂浜へ
天満宮を後にして、次なる目的地は、龍馬に会いに桂浜へ。若い頃は随分と司馬遼太郎さんの本を読みました。「龍馬がゆく」もその一つ。あとは、「峠」が面白かったです。
これは敢えて後ろ姿。桔梗紋だけ色つきです。
もう一枚は、正面。龍馬を真似てお腹ポコリン。





桂浜は、急な波が押し寄せるため、波打ち際に近寄ると係員が、ピピーと笛を鳴らして注意されます。この日は全くの凪でしたが。
こちらが、桂浜。もう一枚は、水族館前で焼いていた焼き蛤。これが素敵にウマイ!





高知旅行2
高知空港で見ました神社の広告とは、市内にある潮江天満宮でした。
この神社に江戸末期に、宮地水位という神官がいらっしゃいました。生身の身体のまま幽界、神界のでいりを許された方です。
自分が神様を祀るうえで、師と仰ぐのが、原始神道家の相曽誠治先生です。その相曽先生が生前に、ご指導をお受けになったのが、宮地先生でした。勿論、宮地先生はとうに亡くなっていらしゃいますので、幽体の宮地先生から色々と教えをうけたそうです。
格式の高い立派なお社でした。巫女の方に何か資料はありませんか?と、尋ねましたが。残念ながら、有りませんでした。それでもよく古神道に励まれる方々が、いらっしゃるそうです。写真の御本殿の裏山から、すーと天上界に、お消えになったそうです。



高知旅行
皆さん、ご無沙汰しております。
今回は「ごろー君、高知旅行の巻」
8月の14日から、二泊三日で初めて高知に行って参りました。何故、高知かと言いますと、ある一本のメールが発端でした。ニュージーランド時代の友人から何年かぶりに、突然メールが入りました。高知出身の一さんからでした。電話に切り替え、話をしているうちに、俄然、行きたくなったんですね。
やはり、幕末維新の立役者。坂本龍馬の里。そして黒潮育ちの土佐の匂いを嗅ぎたい。友人の一さんとも一献飲りたいし。
メールをもらったのが靖国参拝の直後だったのも何かのご縁ですかね、一さんは陸自の出身で靖国の悠就館に行くと涙が止まらんき。と、言ってるくらい熱いとさっぽですから。

龍馬空港に到着後、直ぐに一枚の看板が目にとまりました。ある神社の広告です。



初海水浴
ここんとこ、随分と穢を負いました。今日は朝から良い天気。イザナギ様を真似て、海での禊の真似事。
葉山一色海岸は、高校生の頃からのお付き合い。
逗子駅から葉山辺りは、何故か、とても落ち着ける。毎年一度はお邪魔させていただいてます。



おれたちマブダチ。



映画「シンゴジラ」
さー、続けて行きますね。巷で噂の「シン・ゴジラ」です。自分は小さな頃から映画大好きでしたから、小学生の四年生ぐらいから一人で、町場の映画館に行ってました。当時は家から歩いて行ける距離に三軒くらいありました。東映はマンガ祭り、大映はガメラ、日活はロマンポルノのわけありません、ガッパという怪獣もの、あと映画会社は覚えてませんが、四谷怪談と牡丹燈籠なんかのホラー物。 自分のお気に入りは東宝さんのゴジラシリーズ。そして8・15シリーズこれはあの太平洋戦争を主題にした映画、「日本のいちばん長い日」、「沖縄決戦」など。
シン・ゴジラはやはり東宝さんらしい映画でしたね。なんとかゴジラを核兵器を使用して息の根を止めたいアメリカ。しかし日本はそうしなかったんです皆で知恵を絞り、チームワークでゴジラを止めるんです。まさに和をもってなる国の対処。最後にはゴジラの事を荒ぶる神と呼んでました。脚本には古事記の匂いがいたしました。
日本人らしい思考の映画でしたよ。



新年明けましておめでとうございます
「昨年、心に残ったもの」遅くなりましたが、新年おめでとうございます!
今年で27年目を迎えます。本年もお付き合いの程、宜しくお願い致します! さて、年をまたいでしまいましたが、昨年心に残った物を紹介させて頂きます。
この話は出来事なんですが、昨年の11月、ある月曜日の早朝5時頃でしたか、ふと目が覚めました。そして、店の財布の中にいくら入ってるのかな?
そう思った瞬間、隣で寝ている妻の熊吉君が、いきなり「八万何千円だよ。」と言うではありませんか!間違いなく熊吉君は寝ているんです、自分が目が覚めてから一言も交わしていないのに、なぜか財布の中身を口にしました。その後も彼女は寝ています。
熊吉君が目が覚めた時に訊いてみましたら、「いつも日曜の夜に財布にいくら入っているのか、お父ちゃんに伝え忘れた事に寝ている間に気がついたんだ。」
やばい、心の中が読まれてる。二人して電車に乗ってパッつんパッつんミニスカの若いネエチャンが前の席に座ったらどおしよう?
神様をお祀りしておりますと、不思議なものを見せてもらったり、百万分に一つの偶然が続けて起きたりします。
今年心に残る名曲
自分は音楽には、結構うるさいんです。小さな頃から多種多様の音を聴いて、また歌い育ちました。
今年は心に残る曲、3曲ほど出会いました。一曲はNHK、朝の連ドラの主題歌、AKB48さんの 「365日の紙飛行機」。
朝の空を見上げて、今日という一日が、笑顔ですごせるように、そっとおねがいした。とか、思い通りにならない日は明日頑張ろう、他にも、その距離を競うより何を載せてどお飛んだんのか、それが一番大切なんだ、なんて人生のエッセンス満載の曲ですね。秋元康さんは、永ちゃんの曲の作詞もしてらっしゃいます、美空ひばりさんにも。改めて思います彼は国士ですね。
そして二曲めは、原田知世さんの歌う「色彩都市」
原曲は大貫妙子さん。
なんてことない曲ですが、毎日聴いてます。本当に不思議な曲ですね。
最後は偶然の偶然でCDを購入した「紀元節の歌」
歌の存在は以前から知っておりましたが、初めて曲を聴いたらその壮大さにびっくり!作詞は高崎正風、彼は勤皇の志士で後に宮中お歌所の寄人になられた方だそうです、作曲は東京芸大の初代校長を務めた伊沢修二。
この歌は神武天皇の建国を讃えたというよりも天孫降臨を意識して作られた曲だそうです。
毎朝、紀元節の歌を聴いてから仕事に入ります。



人の声
次は人の声、ある休みの日本牧のスーパーに買い物に。停留所にてバスを待っていると若い女性の声が聞こえました。「あー、今日は本当に疲れたなー。」
その声が、すーっと自分の心に染み入りました。どんな娘さんかと振り返りますと、ダウン症の女性。穢れのない清々しい声でした。

九州旅行
そして、もう一つ九州旅行で瞼に焼き付いた風景があります。大好きなお宿、霧島の「旅行人山荘」さんにてチェックアウトの時に、大変気の良さそうなフロントの男性が「これから、どちらをお巡りですか?」と、「はい、霧島神宮を参拝して鹿児島市内に戻ります。」 「でしたら、高千穂牧場へ行かれたらどうですか?」
このように、誰かが誰かの口を借りて御示唆を頂ける事が多いんです。熊吉君に相談すると「実は私も高千穂牧場は気になってたんだ。」 んじゃ、行くべ、行くべ、と高千穂牧場へ。丘陵地一帯が牧場です。一番上に小さな展望台がございます。そこから眼前にそびえ立つ霧島連峰を眺めたときに不思議な感傷を覚えましたね。いつの日かこの山々を眺め暮らせる日が来ると。
たぶん、写真の右端の山が天孫降臨の地、高千穂岳だと思います。



鹿児島、宮崎
2月には九州は鹿児島、宮崎を訪ねました。宮崎では市内のかつての高級ホテルに泊まりましたが、どのレストランも高いこと。近所にある焼肉屋さんを思いだしタクシーで直行。
まだ、オープンしたて席待状態。仕事柄、店の様子をうかがうと・・・、若い子達だけで切り盛りしていますが、皆さん元気よく素晴らしいパフォーマンス。掃除専門の子は、テーブルの下に潜り込み懸命に床を拭いてました。
今時の若いもんは、と、文句ばかり言ってますが、きちんと躾されていました、教育ではありません、躾です。店名は「キング」さんでしたか?
この写真の娘がいらっしゃいませと、一言発しますと、スタッフ全員立ち止まり手前下に組み、「いらっしゃいませ!!」と元気よく唱和いたします。



無題
さて九州旅行でもう一つ。靖国で浄化された話は以前にいたしました。それ以来お世話になっております英霊の遺品が鹿屋の史料館に展示されております。航空兵のマフラーに墨で熊のぬいぐるみを描いていらっしゃいます。お写真は一枚しかありませんでした。それもサングラス姿。しかし今回、鹿屋を訪ねると写真が三枚に!しかもアップで!お顔は郁恵ちゃんの旦那さんでしたか?渡辺徹さん?によく似ていらっしゃいました。「永遠の0」なんかもありましたから少し注目されたのですかね。



今年、自分の心に残ったもの。
さて、今年の〆に向かい、一年を振り返り、自分の心に残ったものを紹介させていただきます。
先ずは1月2日に見た朝焼け。恒例の一般参賀に出かける時に山手駅近くで見た朝焼けは明るい年明けを象徴しているかのようでした、靖国で合流した友人の写真を見せてもらうと、まるで鳳凰のようでした。



来年も宜しくお願いします
さて、今年も、その終いに近づいてまいりました。
お陰さまで三日坊主は26周年を無事終えることが出来そうです。それもこれも、義理人情に暑い常連の皆様、忠義一徹のスタッフの淑女達。いつも三日坊主を助けてくれる助っ人の皆さん。より良い食材を供給してくださる取引業者の皆さん。家賃の遅れを屁とも思わず顔合わせればいつも笑顔で大声挨拶のビルオーナー。ビルで一番遅い帰りを待ってくれているビル管理の方々、少ない人数で頑張っている清掃のみなさん。辛いときに、いつも背中を押してくれる妻の熊吉君、友人、兄弟。死しても尚且つ、店をサポートしてくれている父、母。見えない世界から穢れを祓って頂いている皇祖皇宗の神々、そして、たまに荒っぽく自分を指導してくれる靖国の英霊達。皆さーん、本当にありがとうございます!中々物に成らない自分ですが、来年も宜しくお願い致します!



貧者の一灯
4月より実施いたしました。熊本地震義援金活動の御報告をさせて頂きます。5月9日月曜日に山手郵便局より、15,560円を熊本県へ、その後8月10日水曜日に横浜中華街郵便局より、9912円を日本赤十字社に送金いたしました。元町全体でも義援金活動をいたしましたが、三日坊主は独自で行いました。
合計25472円 うちの店の規模、客数から致しますと、この数字はいかに、義理人情の厚いお客様に恵まれているか、改めて実感、又、嬉しく思いました。皆様、ご協力、誠にありがとうございました!



天皇陛下の生前退位その2
さて、ここで皇太子妃の雅子様について触れたいと思います。
雅子様というよりも、お父様の小和田恆氏に関する話ですが。以前に小欄におきまして、「自分の小さい頃は、日本は侵略国家だなんて言う大人は回りにいなかったし、靖国をあげつらう話もなかった。」と書きましたし、吉田茂をはじめとして、白州次郎なんかも占領軍にたいしても毅然としていたそうですね。ではいつ頃から我が国は侵略国家だ、とメディアが言い始めたのでしょうか?
実は、昭和60年の衆議院外務委員会における、ある外務官僚の答弁が事の発端だったそうです。この外務省の人間が小和田恆氏でした。小和田氏の師匠にあたるのが東大の国際法の教授で東京裁判の翻訳を務めた横田喜三郎氏です。著書の「天皇制」の中でこう述べているそうです。「天皇制は民主主義とは、両立しない、だから将来的には天皇制の廃止を考えなければならない。」小和田氏が外務省にいるときは横田氏は外務省顧問になっておりますので、二人の関係は浅くはないでしょう。横田氏は後に国連の国際法委員会のメンバーになっております。小和田氏は現在、ハーグの国際司法裁判所の判事でいらっしゃいます。国連、IMFなど国際機関は国際主義者、つまりある民族によって、各国の主権を縛るために、創設されたと言われております。
今となっては、どうにもならない話ですが、皇太子妃としては、難しい御家庭から宮家に嫁がれたわけです。美智子様が宮家に入られる以前は、天皇陛下の御相手は藤原家にご縁のある女性に限られていたそうです。これはどんな保守の論客も指摘してませんが、藤原の遠つ親、御先祖様は中臣氏で天皇家の祭祀を司ってきました。その中臣氏は天孫降臨にニニギノ命を補佐せよと天照大御神の神命を授かった、アメノコヤネ命がその祖先になります。ですからいくら藤原氏が宮廷で権勢を誇っても、決して自ら天皇になろうとはしませんでした。あくまでも天皇家を補佐する、それに徹していたのでは?
初めて民間から天皇家に入られた、美智子様が大変辛い思いをされ、最後に「もう、大丈夫。私は浄化されましたから。」との御言葉は、そこにある気がいたします。ある試練を課せられたのではないでしょうか。
ですから、天皇家とは相容れない思想の持ち主のお父様をおもちになった雅子様が皇后様になられるのは、自分は以前から、かなり危惧しておりました。雅子様が良いとか悪いとかの話ではありません。自分もここ7年になりますでしょうか、色んな不思議な体験をしたりしますと、人はある霊的な背景を持っていると思うようになりました、本人の意思と関係無く、物の価値観を決めたり対人関係を動かしたりする力が存在いたします。
自分の勝手な結論付けになりますが、生前退位という前例を残して、皇太子様の東宮家より、早期に秋篠宮様が天皇に成るべく道筋をおつけになったのではないでしょうか。

天皇陛下の生前退位その1
昨日、天皇陛下の国民に向けたビデオメッセージが流されました。自分も休みの月曜日でしたので、自宅にて陛下の御言葉を拝聴させていただきました。
御言葉の中、陛下は高齢により象徴天皇としての務めが困難になっていくことを案じておられるようでしたね。
生前退位となると皇室典範の見直しなど種々の問題が生じてきます。災害時に被災地訪問をなさる時でも、極力現地に負担を、かけぬように御配慮された陛下でしたが。
自分は生前退位には、反対です。摂政をおけば宜しいだけの事、しかし陛下は摂政をおく御意志はないようです。今は治世が落ち着いているからいいんですが、この先にとんでもない権力者が現れ、時の陛下が自分の思い通りにならないから、退位させ、幼帝を担ぎ上げ世を動かすこともあるかも知れませんね。
詳しくは調べてませんが日本史を遡ると、法皇、上皇、女帝などの時に、国が乱れるように思えます。最近でも、民主党政権下、小沢一郎が集金平にはくをつけさせるために、宮内庁を恫喝して、無理矢理陛下を会見させましたね。その集金平の中共が我が国に何をしてくれていますか?
それでも陛下は生前退位の御意志を間接的ではありますが、述べられました。 自分は本当の理由は他にある気がいたします。はっきりと申し上げます。それは雅子様を念頭においていらっしゃるのでは、ないでしょうか?
メディアでは全く報じませんが天皇陛下の一番大事なお務めは内閣総理大臣を任命することではなく、外国からの要人にお会いすることでもありません!それは祈る事です。皇室祭祀と言われております。天皇家とは神話にその起源をもとめます。天照大御神のお孫さんのニニギノ命の降臨より初代神武天皇そして今上陛下まで多分何万年もの歴史を誇ります。ですから陛下のみならず皇室の一番大事なお務めは、皇祖皇宗の神々に、国民の安寧、五穀豊穣を祈る。と云うことです。一例をあげますと、毎朝、石灰壇に立たれて、伊勢神宮を遥拝なされるそうです。これは行幸中でも同様だそうです。飛行機の中でも、ここが石灰壇と見立て遥拝なさるそうです。
特に平成の天皇皇后両陛下は孝明天皇以来どの天皇よりも祭祀を厳修されていると伝えられております。両陛下は祀りごとに命を賭けていらっしゃるのです。 少し前に、美智子様の本を読みました。初めて民間人として、皇后様になられた美智子様は宮中内での虐め、メディアの言われなきバッシングにさらされ、心痛のあまり、失語症になってしまいました。7ヶ月に及ぶ失語症を乗り越えた美智子様はこう、おっしゃったそうです。「私はもう大丈夫、ピュリファイ、つまり浄化されましたから。」とおっしゃったそうです。
続きはまた。

無題



自分の戦後70年、最終章。
今日は休みなので、朝からYouTubeで馬渕睦夫さんの「「和の国の明日を造る」を観ていました。
馬渕さんは、トランプ現象と古事記の天孫降臨を絡めて、お話していらっしゃいました。
あの太平洋戦争も、ロシア革命もアメリカの南北戦争も、朝鮮戦争もほとんどの戦争に加担しているのは、アシュケナジーユダヤ系の国際金融家と呼ばれるグローバリスト。例えば、ロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーなど。このたりはNHKの「新、映像の世紀」がやってくれました。いかに彼等が金融を操り恐慌を起こして巨額の利益を得て、あの、ヒトラーの再軍備に手を貸してここでも巨利を手にしました。アメリカのFRBを抑え、EUを造り、TPPを押し進め、世界をお金で統一したい勢力。湾岸戦争で石油を握り、、アラブの春で中東を混乱させて、ウクライナ問題ではプーチンを挑発。資源を握り、世界を混乱させて、それに乗じて世界統一政府を樹立。これが彼等の野望です。
日本も含めて世界のメディアを握り、自分達に都合の良い情報を流し続け、世界を洗脳する、分かりやすい例が、ウクライナやシリア問題を自分達で造り上げロシアを悪者に仕立て、プーチンを挑発して、軍事行動を起こさせ、世界の世論を反プーチンにもって行き、いつかはロシアの天然資源をその、手中に収める。これが彼等の狙いだそうです。
皆さん、メディアの報道をみていて、おかしいと思いませんか?マレーシア航空機の撃墜事件はどうなりましたか?なんで、イスラム国などというテロ組織が急に現れて、短期間に占領地域を拡大できたんですか?ロシアのアスリートばかりに、薬物疑惑が生じますか?我が国においても、新聞がやたらと北鮮の動向に紙面の幅を割いているのは、なぜ?週刊紙で的にされるのは、自民党では、稲田さん、山谷さん、高市さん彼女達は皆さん靖国応援団です、これは偶然?最近テレビで移民受け入れは当然と、コメントするキャスターが、多いのはなぜ?
領土拡張主義者と誹謗されるプーチンと安倍さんが信頼関係にあるのはなぜ?ローマ法王がなぜ、ロシアを訪問なされ、第三次世界大戦がもう始まっているのはと言及されたのは?
馬渕睦夫さんは断言しておりましたが、朝鮮動乱はおこる、そして半島は制圧される北鮮によって。韓国は消滅。メディアは信用してはなりません。信用できるのは、週刊ポストの袋とじくらいのものです。
冗談は、さておき、本題にはいりますね。自分はもう7年くらいになりますが、身の回りに不思議現象が起こり始めて日本の皇祖神をお祀りするようになりました。靖国の英霊との出逢いはもうホームページ上でお話いたしましたね。それ以外にも、日本の神々にまつわる不思議な体験もさせて頂いております。まだまだ、未熟な自分です。いつか、時がきたら、お話させていただきます。
神様を祀るといっても、何をしてよいのか、わかりませんでした。神道には教本はありませんから。そんな時に巡りあえたのが、相曽誠治という、原始神道家でした。作家の佐藤愛子先生が長年にわたり霊障に苦しめられ、最後に助けていただいたのが、相曽先生だったそうです。別に教団を組織するわけでもなく、数名の門人をもつだけでした。佐藤愛子先生いわく「いつも、ヨレヨレのスーツをお召しになって、田舎の村長さんみたいな方」実際に、町長さんや、民生委員などをなされていたそうです。相曽先生は一生涯をかけて、天孫降臨を実証するために日夜、御研究を続け、また、言霊の解釈においては大家でいらっしゃいました。佐藤愛子先生が相曽先生とお付き合いしているうちに、あまりの不思議さに「もしや、神界から、使わされたのではありませんか?」と、お訊きしたところ「はい、言向の命と申します。」と、お答えになったそうです。
さて、その相曽氏はあの太平洋いや、大東亜戦争に突入する前から、先の大戦は、ある民族の陰謀であるから、国民の国体意識がこのままでは、必ず負けますと、一民間人でありながら、近衛文麿を初めとして、政治家や、軍の上層部に掛け合いに行ったそうです。インターネットもない時代に、なぜ、あの民族の陰謀と判ったのか、不思議ですね。
相曽氏は生前(1999年12月31日帰幽)にその講演の中で、なんどもあの民族の世界的な陰謀に警鐘をならしておりました。アメリカに巣食う、白蟻族と読んでおりました。
古事記によりますと、イザナギ、イザナミの夫婦神は上級の神々より、この漂える国を修理固成なせ、つまり、人々平和で豊かな世界を造りなさいとの御神命を受けます。
イザナギ様、アマテラス様の系統の神々から、ニニギノ命、神武天皇から今上陛下までが陽の系統、イザナミ様、スサノオ様、オオクニヌシ様、スクナビコ様などが陰の系統となるそうです。
本来でしたら、陽と陰がいっしょになって、世界規模での修理固成を進めなければならないのですが、スサノオ様は、御神命をオオクニヌシ様、スクナビコ様に押し付けて、わき道にそれてしまったそうです。それだけなら良いのですが、陽の足を引っ張っているのが現状。世界を金融で支配し国境を廃止し世界統一したい方々の霊的な背景がスサノオ様だそうです。生前に相曽氏は21世紀に入るとスサノオ様の系統は禊を受けると、おっしゃってました。日本の神様がなんで世界と関係あんの?店長、安酒飲み過ぎで、ついに、前頭葉が溶けはじめたのか?
そうご心配なさるかと思いますが、実際にウィーン大学のスラヴィック博士などは、スサノオ命の夜間秘密訪問儀礼はヨーロッパにもその足跡を認めることができると研究なさっております。日本のナマハゲみたいなもんです。
さて、ウォールストリートはキングメーカーとして世界統一政府を達成したいために自分達の操れる大統領を、政府を造ってきました。彼等が推しているのがクリントン氏です。そして共和党があのトランプ氏。もし、トランプ氏が当選したらどうでしょう?自分は歓迎いたします。キツい注文があるでしょうけど、安全保障、外交、憲法、など本当にこの国が独立国家になり得る道が開かれる気がいたします。いま、世界は大変な危機にあるそうです。5億人の信者から種々の情報が入るローマ法王のお言葉、行動がそれを表しております。その危機を誰が扇動しているのか?ロンドンシティー、ウォールストリートの国際金融家、グローバリストと呼ばれる方々です。戦争が起これば無垢の民が犠牲になります。
実際に世界各地で毎日のようになんの関係もない人々が倒れております。我が国でも、親を殺す、子供を殺す、別れた腹いせに男が女を刺す。矢鱈と権利ばかり主張する、夜の夜中に幼子をつれ回して、カラオケ、居酒屋に行く。全く別の問題のように思われるかも知れませんが、根っこはいっしょですよ。日本人の精神性を無くせ、欲望社会にしろ、徐々に殺られているんです。 原始神道家の相曽誠治氏は、常々、こうおしゃってました、「争うな抗うな時を待て、言向けをせよ。」古事記にある場面。
黄泉の国での醜態を夫のイザナギ命に見られたイザナミ命は怒り心頭でイザナギ様にこう毒づきます「こうなれば、貴方の国の民を毎日、1000人殺します。」、イザナミ様は同じレベルにはなりません。「好きにしなさい、わたくしは毎日、1500人の子をうもう。」
これが天皇陛下を戴く和の国のありかただそうです。イザナギ様のお子であるアマテラス様も高天ヶ原めざしやって来るスサノオ様と闘う準備こそすれ、お互いに「うけひ」によって、話し合いによって争いを避けました。その後、スサノオ様は高天ヶ原で乱暴狼藉の限りを働きますが、アマテラス様は、スサノオ様を庇い、天石屋に籠られてしまいましたね。
先日の伊勢志摩サミットのあとに、オバマ大統領が広島を訪問して下さいました。伊勢でのあとに広島、見えない大きな力が働いているとしか思えません。 いま、アメリカでは、あの戦争当時のルーズベルト大統領の評価見直しが行われているそうです。彼と彼を取り巻く勢力によって我が国はあの戦争に引きづりこまれました。
日本人のみならずアメリカ人もあの戦争が誰によってなんの為に引き起こしたのか理解してもらえれば、世界から紛争が無くなっていくのでしょう。
実はこういった事象を端的現しているのが、靖国なんですよ。
さー、陰と陽の修理固成が一日でも成就致しますことを、祈念いたしまして、お約束の「天皇陛下万歳!」」

可愛い娘見つけた
仕事帰りに、よく、麦田トンネル前のセブンイレブンにてカンチューハイを飲りながら、ツィートしてるんですが、すぐそばに、可愛い娘さんがおりました。本牧通り沿いに、すくっとたたずんでおります。
それは、誰かと尋ねたら、なんと!さくらんぼの木に実がなっておりました。横浜の街中、それも車の通りが多いところで!
今まで、毎日のように前を通りすぎていたんですが、うちのパートさんに教えてもらいました。清々しい驚きでしたよ。



国内の問題
国内の問題では、もっと我々の身近なところでも起こっていますよ。例えば、夫婦別姓、外国人に地方参政権を与えろ、最近では国連が女系天皇を認めるべきであるとか、これなんか内政干渉の最たるものですね。あとは、難民、移民を受け入れろとか、気をつけなければいけませんが、国連とか、IMFとか、国際司法裁判所とか、国際なんとかって言われる機関はほとんどが、ある民族、グローバリスト達によって創設されました。何故か?国家の主権を押さえて世界統一政府を設立するためです。EUもTPPも同様。国境、関税をなくし金融によって世界統一を目指す。
これが世界に散らばりお金でその国を支配し、自らの安全保障とする。アメリカの独立戦争、ロシア革命、先の大戦、現在のシリア情勢にいたるまで彼等の関与によるものだそうです。
そしてグローバリストとは、ある民族の方だけではありません。自民党の元首相の中曽根、竹下、宮沢なども彼等とご縁の深い方々と言われております。話が横道にそれますが、我が国独自の資源外交を展開し潰された、角さん、田中角栄元首相が今、見直されているのは興味深いですね。それと経済界にも、読売のナベツネなんかも、メンバーじゃないですか?自分の独断ですが、それと、アメリカの中央銀行,FRB。アメリカ政府は1%の株も、持っていないそうです。勿論、モルガンなどのユダヤ資本に握られております。政府がお金が必要な時にはFRBにお金を出してもらう度にアメリカ政府は利息を払うんだそうです。自国の通貨を発行するたびに自国の中央銀行に利息を払う。これぞ、濡れてにあわのボロ儲け。暗殺されたリンカーンやケネディ、未遂に終わったレーガン。彼等は政府自前の通貨を発行、レーガンはFRBの監査をやろうとして、命を狙われた。と馬渕さんの本にありました。
話はまた、飛びマス。たまたま、池上彰氏の番組で、彼は好きでありませんが、たまたまアメリカ大統領候補者のサンダース氏の演説をやってました。「ウォールストリートの奴等にもっと金を払わせろ!」アメリカ人も気が付き始めたんではないでしょうか?自国を操る人達に。ついでながら、トランプ氏が大統領になったら我々にとっては幸運ではないでしょうか?ぎゅうぎゅうに注文つけてくるかも知れませんが、我が国の真の独立にとっては、必要なことだと思います。イクメン代議士とか、保育園入れなかったからこの国死ねーなんて、話を国会で論議する必要も無くなると思いますよ。

あー、今日はガンバって色々な話をさせていただきました。じつは昨日から熱がでて、あまり下がりませんでした。一日寝たきり老人でした。
知恵熱ですかね。
次回はいよいよ本題にはいります。

スタップ細胞について
スタップ細胞の事件がありましたね、発見された時は、あれだけマスコミがもてはやされたのに、疑惑が浮上したとたん、いたいけな女子研究員に十字砲火を、各メディアが一斉に浴びせました。この時にふと自分の亡き父の話を思いだしました。彼は製薬会社のプロパーでした、「薬を造るまでには、長い年月と莫大な研究費がかかる。だから、日本の製薬会社より、外国の会社が、先に行っている。」ですからこの時は、「スタップ細胞はあるんです!」とツィートした覚えがあります。それと彼女の顔、どおしても、彼女が平気で捏造するような顔には見えませんでした。それと一緒に研究なさってた方がお亡くなりに、自殺ですか?
これはおかしいなぁ?もし、そんな便利な細胞が出来たら、大打撃をうける外国資本が絡んでるのと、違うかな? 最近のYouTubeで馬渕睦夫さんの番組で同じようなことおっしゃっております。「そのうちに海外の会社がスタップ細胞を発見し、特許をとるでしょう。」
あとは随分と前に丸山ワクチンというガンに効く薬も結局は、何だかんだと厚生省が文句をつけて、認可されませんでした。
馬渕さんがおっしゃってましたが、安部首相の戦後70年談話やスタップ細胞疑惑、今回のパナマ文書、反プーチンキャンペーンなど各メディアが一斉に動いた時には必ず裏がある、裏とはウォールストリートやロンドンシティーのグローバリスト達の思惑がある。

自分の戦後70年
久々に「自分の戦後70年」を投稿いたしました。
昨年の8月から随分と間が空いてしまいました。別におっぽっておいた訳ではありません。馬渕睦夫氏という保守の論客が突如現れました。彼は外務省に勤務なされ、キューバやウクライナの大使を勤め防大の教授をなさっておりました。
2年ほど前ですか、「正論」という保守系の雑誌を見ていました。今でもそうですが、日本も含め世界的なメディアはロシアのプーチンは、領土拡張主義者であるとか、力によって世界秩序に挑戦する独裁者である、みたいな論調でした。
そしたら、正論の中にプーチン擁護の論説を載せている人がいるではないですか!改めて申し上げますが、自分もプーチンは強権主義者だと思っておりました。 内容はこうです。ウクライナ問題は、ロシアではなく、ロシアの天然資源を狙っているグローバリスト達によって引き起こされていること、ソ連崩壊以後、エリツィン時代に主にユダヤ系の財閥に買い占められたロシアの天然資源をロシア人の手に取り戻す、そんなプーチンを引きずり降ろしたいグローバリスト、国際金融家と呼ばれるグループとの闘いである。
そして、世界をお金で支配したいグローバリスト、主にロンドンシティーやウォールストリートの人達にとって、一番邪魔な存在は、自国を愛し、お金で転ばない、プーチンや安部首相であること。そんな内容でした。保守の論客で初めての方でした、こんな話をするをする人は。
そうすると、色々な謎が解けました。なぜ、プーチンはロシアにおいて80%以上の支持率があるんだろう?なぜ、安部首相はプーチンと中が良いんだろう?
簡単な話ですよね。グローバリストによって世界のメディアは掌握されていますから。世界だけではありません、日本のメディアも同様です。
一番分かりやすかったのが昨年の、安部首相の戦後70年談話。特に、読売とお抱え学者の北岡伸一、そしてもと首相の中曽根によって、日本侵略国家キャンペーンが張られました。中央公論、あの、文藝春秋も。その少し前に放映されたNHKの特番でも、保坂正保氏などによって、昭和天皇の靖国を思われてのお歌を全く違う場面で流したり、洗脳ここに極めりでした。 前述いたしましたが、グローバリズム、ユダヤ主義、共産主義は同根である、彼等によって日本はあの戦争に引きずりこまれた。
これが馬渕睦夫氏のおっしゃる、あの戦争の真相。
あの東西冷戦もベトナム戦争も、朝鮮動乱も全て、彼等によって引き起こされ、それは、現在も続いている、ロシアをめぐる闘いやシリアの内戦、ヨーロッパにおける難民問題も同様。一つ例をあげますと、何故、急に世界的に天然資源安になったんでしょうか?天然資源で食べているロシアを、プーチンを締め上げるためだそうです。
難民問題やテロに晒されているヨーロッパも同様に彼等の力が働いているのだそうです。そして日本でも。

靖国参拝
今日は、ゴロー君を連れて靖国参拝。千鳥ヶ淵には、たくさんの人出。日本人のみならず、外国の皆さんもこの地の桜を愛でていらっしゃいます。靖国の英霊も、この光景に目を細めていらっしゃるでしょう。
皆さん、日本の神々による世界規模での、修理固成は間違いなく進められております。テロなどの摩擦はありますが、東京オリンピックまでには、治まる気がいたします。その時の世界の主役は、和をもって尊しとする、我が国、日本ですよ。



箱根駅伝
「1月2日」
皆さん、こんにちは、今晩わー!久々の勝手報告です。
今回は何を今さら、新春号デス。と、いいますのは、今朝ほど、出勤の時に、近所にお住まいのNさんにあいました。Nさんは古くからのお客様で、よく職場の御宴会のご予約をいれてくださいます方で大変明るい気を発していらっしゃいます。
話の本筋に入ります。1月2日は、例年どおり、丸の内にて、箱根駅伝のスタートと、むちむちパッつんパッつんのチアガールを堪能してから、皇居に向かいます。今回の部隊編成は、熊吉君と自分の三日坊主チームと、ホルモンほうちゃんチームとの合同部隊です。ほうちゃんチームは、駅伝を見ないで先に、参賀の列に並び、参賀終了の後に「靖国で会おう!」の予定でした。
この日は朝から素晴らしい朝焼けを仰ぎました。この写真を見ますと、よく判かりませんが、同行した、ハイジこと、配ちゃんの撮った写真には、この朝焼けが羽を広げた鳳凰のようでしたし、皇居前広場で見た雲は天空を目指す龍のようでした。



靖国参拝
参賀を終えて、乾門を出て北の丸公園のレストハウスで生ビールをぐびりとやり、御皇室カレンダーを購入。靖国を目指します。
今回は初めて、御本殿の中で参拝させていただきました。受付にて、署名し少しだけ多めの玉串料を納めさせていただきました。
中に手水舎もあり、途中でお祓いを受け御本殿に。正座して、神主さんの祝詞奏上の後、参拝者一人一人の名前が読み上げられます。特別な方や崇敬会の会員しか入れないと思ってましたので、嬉しい体験をさせていただきました。
参拝のあとは、皆で一杯です。境内には数多くの露店が出店しておりますから適当な店を探して入ります、と、後ろのテーブルには、あのNさんが、その後ろの席には、ホルモンほうちゃんの常連さんのH君が、オマケに相席となった白髪の男性は、ホルモンほうちゃんと同じ大和町商店会の床屋さんにいた方でした。いまでも、パンチパーマをやっているそうです。
皆さん、はならずも一般参賀に行き、靖国で初詣、同じ露店で、モツ煮で一杯、つくづくご縁のある方達でした。



駅伝
駅伝のスタートを見て、皇居前で並んでおりますと、道をはさんだ隣の集団に前述したNさんのお姿を確認、お互いに手を振ります。手荷物検査を終えますとまた、いくつかの集団に別れて並びます、一つのグループが多分、千人くらい?ですか?そのグループ毎に宮城に入っていきます。隣の集団が、ザーッと動き、止まりました、横を見るとほうちゃんチーム、まあ、奇遇なこと。彼等と二言三言言葉を交わすと、彼等はまたザーッと皇居に進んで行きました。
この数分後に我々の集団が二重橋を通り参賀開場に入ります。一番、陛下がよく見える場所を探します、と、前に立っている男の頭に見覚えが、そうです。ホルモンほうちゃんの一隊でした。この日の参賀は、約八万人?でしたか、5回に分けましたので、一回で約一万六千人の人ですね。まあ、よく巡り会えたこと。陛下のお言葉を頂き、皆で「天皇陛下万歳」三唱し、靖国に向かいます。



師走は、あっという間に駆け抜けて、御節も無事終えて、新春を迎えました。
早いもので昨年、三日坊主は開店25年を迎えることが出来ました。本当にズブの素人が良くやれてこれたと思います。
人生をドラマだとすると自分が主役となります。いや、監督ですね。良き出演者に恵まれ、照明さん小道具さん達。それと一番大事なことは脚本でしょうね。
さあ、今年はどんなストーリーを書けるでしょうか?
写真は1月2日早朝、一般参賀に行く時の朝焼けでした。



自分の戦後70年続き
戦後70年に関しましては、随分と間が空いてしまいましたね。
前回は満州の話でした。満州事変で触れておかなければならない事実があります。今回の安倍さんの談話作成に関わった読売のナベツネさんの御用学者、北岡伸一という者がおりますが、彼は談話が公表される前から「満州事変などは侵略だ、自分の回りの学者は皆、そう言っている。」などとマスコミに喧伝しておりましたが、実は国際連盟から派遣された、リットン調査団の報告書には「満州の情勢はとても複雑であり、日本が中国を侵略したというような単純なことではない。この紛争は一国が国際連盟規約の提供する調停の機会をあらかじめ十分に利用しつくさずに、、他の一国に宣戦を布告したといったような簡単な事件でもない。なぜなら満州においては、世界の他の地域に類を見ないような多くの特殊事情があるからだ。」
と報告書に満州事変の性格を記述しておるそうです。つまり、あのリットン調査団でさえ、侵略と言っていないのに、ナベツネの力と親中の外務省によって、いつも政府の有識者会議に顔を出している大した著書もない学者が、「日本は侵略国家だった。」と言い切れるのか。
ここで「安倍談話有識者懇談会」に触れておく必要性が生じました。安倍総理の戦後70年の談話を策定するにあたり、有識者が16人選ばれました。座長は西室泰三氏(日本郵政社長、東芝相談役)座長代理が先程の北岡氏です。
座長代理の北岡氏には以前から、嫌悪感を抱いていた自分はかなり心配しておりましたが、メンバーの中のお一人のお名前をみとめた時に少し安堵いたしました。その方は京大名誉教授であり、自分が信頼する保守の論客である、中西輝政氏であります。保守系の論客と言っても色々な方がいらっしゃいます。自分の判断基準としては、日本の国体をしっかり理解していること、靖国存在の重要性を唱えることができる人。日本だけではなく、その時代時代において世界の潮流はどうであったか、その中で我が国がどう生き抜いてきたかをきちんと説明できる人。
安倍さんが、二度目の内閣を率いて展開されていらっしゃいます外交を見ていますと、「あっ、ブレーンに中西先生がいるな。」なんの情報がなくても解りました。中西先生はその著書の中、「我が国の外交においては、同じ価値観を持つ国々をいつも味方につけておくこと、そして主張すべきことはきちんと主張すること、相手との摩擦を恐れるあまりに、なにも主張しないことが我が国の平和を失うことに繋がる」
安倍さんが八面六臂の外交を繰り広げているのは、こういうことなんですね。
さて、有識者懇談会に話を戻します、中西先生ともう一人保守系の論客がメンバーに入っておりました。
メンバーは16人そのうち14人実質的なチャイナハンドの外務省枠で侵略戦争論者であり、中西先生ともう一人保守系の論客の二人だけが首相官邸枠だったそうです。そして会議で与えられた発言時間は、僅かに一分だったそうです。報告者にはある程度の発言時間が与えられたそうですが、その報告者は北岡氏と関係のある学者や外務省との繋がりが深い学者が選ばれたそうです。早い話安倍さんに侵略の二文字を言わせたかったんでしょう。
自分も心配になり、安倍総理宛に自民党の横浜支部と顔見知りの自民党の県議の方を通してファックスを入れました。くれぐれも70年談話には「侵略」の二文字は入れてくれるなと、公式の総理談話です。河野談話、村山談話と同様に後々まで残ります。そうしますと靖国に祀られております英霊は、侵略国家の尖兵となってしまうではありませんか。 安倍談話が公表された翌日の読売を開いてみたら、ビックリ。朝日顔負けの見出し。お腹が空きました。また、次回。

9.5ドーム矢沢永吉
皆さん、こんにちはー、こんばんはー。すっかりと秋の長雨ですね。
さて、先々週末の土曜日の夜、店をお休みさせて頂き東京ドームに、永ちゃんのライブに行ってまいりました。通常ですと、武道館で6日間くらいあるんですが、今年はこの日一発のみ。最初の抽選はペケ、二回目で、チケットをGET。スタッフの森住の娘さんの、まきちゃんのくじ運には、いつも感謝。
ドームは初めてですが、後楽園がすっかりと様変わりしていて、ビックリしました。板橋生まれの自分は後楽園には、遊園地、野球、ローラースケート、キックボクシング観戦など、しょっちゅう足を向けてましたが、横浜に来てから、全く遊びに行ってませんでした。お洒落な大人の雰囲気。でも、なんでもありの昔の後楽園も懐かしく思い出されます。
ながーい列に並びドームに入ると、あの、永ちゃんコールの嵐。ステージ直前には、ウェーブが始まりました〓その時、「やばい!」と気がついたんですが、二週間ほど前に、軽いぎっくり腰やって、急に立ったり座ったり出来ないんです。永ちゃんのコンサートは大変統率がとれていて、アップナンバーやミディアムは立つ、スローやMCのときは座る、タオル投げはこの曲のこのフレーズの時、と、聴き手も一糸乱れぬパフォーマンスを見せるんです。みんな総立ちで永ちゃんコールの中、独り大仰に座ってるわけには、いきませんから、腰を擦りながら恐々約2時間半を過ごすこととなりました。
それでも永ちゃんがオープンカーで姿を現すと、腰の痛みなんか、言ってられませんでした〓曲は懐かしいのやら、新しめの曲やらで皆さん大喜び。少し前に、ジョニーが亡くなったからか、キャロル時代のナンバーも。あっという間の2時間半。
でも、いつも思うんですが、会場にはゴロマブイ顔つきの、おっさんが日本中から集まってきます。彼等はある意味で、人の本質を見抜きます。タイトな人間関係で若い頃を過ごしているはずですから、そんな男達を長年に渡り魅了永ちゃん、もう、おそらく、こんなアーティストはでてきません。
「矢沢の前に矢沢なく、矢沢のあとに矢沢なし。」
あと、何回彼のステージを見られるでしょうか。

永ちゃん、あいしてるぜー!



無題
甘い蜜の海ー、溺れてーふたーり、みーじーかーいー人生ー、恋してーはてーよー。イェー!
矢沢永吉「Honey bee」より。



自分の戦後70年その3
共産主義を推すアメリカに我が国は負けました。日本の軍隊が武装解除され、引いたあとに、支那大陸、朝鮮半島は、あっという間に、赤化されましたね。我が国が、日清、日露、支那事変、満州建国と支那大陸や朝鮮半島において軍事力を行使したのは、紛れなく安全保障、国土の防衛の為であります。
南下政策をとっていたロシア、そして、革命によって産まれたソビエト。満州建国などは、その最たるものでしょう。若い頃に満州建国を立案、実行した、関東軍の参謀。石原莞爾に関わる本を読んだんですが、なぜ、満州を建国したか?一は、在満の、自国産業および在留邦人の権益並びに安全確保によるもの、五族協和、資源調達、そして、ソビエトの南下への備え。世界大恐慌によって、食べていけなくなった国が新天地を求めたのでしょう。当時の独立国は、40数ヶ国だったそうです、その半数近くの国が、満州国を承認したと。その中には、あのローマ法王を頂く、バチカンも含まれます。バチカンは反共ですから。
戦後、病に臥していた石原莞爾を連合国は極東軍事裁判の参考人として、聴取致しました。石原莞爾は、連合国の判事にこう尋ねたそうです、
「いったい日本の戦争責任はどこまで遡るのか?」
判事はこう答えました、「日清、日露まで追及するだろう。」
石原は切り返します、「そうか、ではペリーを呼んでこい、我が国は徳川の時代より、300年にあまり、鎖国をしてきた、それを貴国のペリーが黒船に乗りやってきた。そして砲門を向け国を開けと迫った、先ずはペリーを呼んでこい〓」 「満州を造ったのは、自分である、自分は立派な戦犯である、法廷に呼べ!」
頭脳明晰な石原莞爾に法廷において、アメリカ悪玉論を展開されるのを恐れたかどうかは、わかりませんが、石原は極東軍事裁判の被告にはなりませんでした。 蛇足ではありますが、満州建国の際に関東軍の石原の上官でありました、板垣征四郎は戦犯とされ、刑場の露と消えました。全く話は外れますが、世界的な指揮者の小澤征爾さんのお名前は、石原莞爾と板垣征四郎から一字づつ頂いたそうです。侵略とされた満州建国を実行した、二人から、名前を重ねた小澤さんが日本を代表する指揮者になったのも興味深い逸話ですね。
確かに人の国土に軍隊を駐屯させ、商売を始めたんだから、今の常識からすれば、侵略者となるかも知れません。が、あの当時の地球儀をぐるっと回せば、アジアの中で独立国は、我が国と、タイ 少し離れてトルコぐらいでしょう。あとは全て植民地です。支那は列強によって虫食い状態。香港島には少し前までユニオンジャックが翻り、チンタオはビールで有名、皆さんご存知ですね。
あの頃は戦争で負けた国は、言葉は悪いけれど、おとしまえをつけさせられたんです。賠償金を払い、領土を割除されました。、さきの大戦で戦勝国となったアメリカの基地が、日本のそこかしこにあるのと、一緒です。

お若い皆さんは侵略と聞くと、いかにも、軍事力をもって、わーっと攻めたような感を、受けると思いますが、全く違う話です。
当時の幣原喜重郎内閣はいくら、コミンテルンに操られれた支那に挑発されても、事変不拡大の方針を貫いてました。

自分の戦後70年その3
「自分の戦後70年」その2
なぜ、民主主義国家のアメリカが、支那を、共産化したかったのか?
アメリカはピューリタンによって建国され、その後、WASP.(アングロサクソン、ホワイト、プロテスタント)が中心となり国を動かしていましたが、いつの間にか、国家の中枢をユダヤに握られてしまいました。そういえば、ニクソン政権の時には、キッシンジャー、彼はロックフェラーにご縁のある方でしたし、カーター政権では、目つきのわるいブレジンスキー。オバマさんでは、首席補佐官のラーム、サマーズなんて方々もユダヤ系だそうです。国際連盟を提唱したウィルソンや日米開戦時のルーズベルトも回りは社会主義者に固められていたそうです。
それと、この本を読んで初めてしりましたが、ロシア革命を起こした指導者達の8割がユダヤ系だそうです。レーニン、トロッキー等々。話は横にそれますが、ロシア革命が成功した要因として、日露戦争がありました。貧乏な国家であった我が国は、ロシア帝政のユダヤ弾圧から同胞を助けたいヤコブ・シフから多額の戦費を借りましたが、その返済が終わったのは、なんと1986年だそうです。いったいどんだけの利息をはらったんでしょう?
当然、ロシア革命でもユダヤ系財閥は大儲け。
戦争の時は莫大な戦費かかかります、彼等は片方の国だけでなく両方に貸してより多く儲けるのだそうです。そんな彼等に操られたアメリカはソビエトと組んで共産主義化を押し進めます。何かの本で読みましたが、レーニンの最後の言葉は「是が非でも、中国で社会主義革命を成功させよ。」しかし、支那には、共産主義とは絶対に相容れない、国、天皇を中心として、民族度の高い国。日本がおりました。馬渕氏曰く、第二次世界大戦はアメリカをかげで操る勢力とソビエトによると断定しておりました。決して支那をめぐる市場や権益の争いではなく、支那というより東アジアを共産主義化したい彼等にとって日本は邪魔な存在でしかなかったのです。そういわれてみると、自分も不思議に思っていたこと、なぜルーズベルトの回りは社会主義者に固められていたのか、なぜ民主主義国家のアメリカが社会主義国のソビエトと組んで日本を叩いたのか?日本が負けた後、支那での国民党と毛沢東の共産党の内戦で蒋介石は、なぜ台湾に逃げ込むはめになったのか?あの極東軍事裁判を主導し、ありもしない戦犯を作り出した、あのマッカーサーがアメリカの上院外交軍事委員会で「日本のあの戦争は、主に防衛戦争である。」と証言したのは、なぜか?
国連軍を指揮したマッカーサーは勝利できたはずなのになぜ解任されたのか?
当時、世界最強と言われた機動部隊を有した我が国を完膚なきまでに叩きのめしおまけに原爆まで使ったアメリカがなぜベトナム戦争に勝利出来なかったのか、周恩来とキッシンジャーの会見を読んだことがありますが、日本のことをボロクソにけなしたのはなぜか?馬渕氏の著書で合点がいきました。
実は、もう30年ほどまえになりましょうか、「2039年の真実」という本を読んだ時に、アメリカという国を動かしているのは、軍産複合体であり、彼等がケネディ大統領を暗殺。
また、軍産複合体にとって共産主義は弱くては困る存在と書いてあった記憶があります、著者は落合信彦さんでした。彼は初めて、本当の国際政治とは何たるかをけつの青い自分に教えてくれた人でした。
つまり、朝鮮戦争もベトナム戦争も、あの冷戦もアメリカを操る勢力と共産主義との出来試合ということです。

自分の戦後70年
本日、我が国は敗戦後70年を迎えます。新聞、雑誌などで随分と、特集が組まれました。書店に並べられた書籍など、かなり詳しい内容のものもありましたね。一番心配な著者の方々も、自分が知っている保守系の先生方が多く見受けられました。
あの震災以来、この国が戦後歪められた本来の姿を取り戻すべく、少しづつではありますが浄化が始まった、そう感じております。 人間だけで歴史を編むと考える事を、平面史感と呼ぶそうです。人間だけではなく、そこに目に見えない大きな力が働いている、と考えるのが立体史感。当然その力とは、古事記に出てくる日本の神々によるものです。
さて、話を本題に戻しましょう。以前からあの戦争に関して、ある程度の知識はありましたが、ここ数年間、もう一度勉強し直しました。当然、教科書となり得るのは、この国を愛する先生方の著書になります。特に重視したのが、国体感のしっかりしていらっしゃる方々。天皇家、国家の歴史、そして、我が靖国を軸に据えていること。これが大前提。保守面してうまいこと言っている方々はあんまり相手に出来ません。例えば、女系天皇容認、靖国に代わる施設をつくれ!とか、おっしゃる先生方は、けつに、中共やユダヤがくっついていそうなので、必要な知識だけ頂くことに、いたしました。
そんな中で彗星の如くまかりでましたのが、元ウクライナ大使の、馬渕睦夫さんでした。馬渕氏は、キューバやウクライナのなど各国の大使を務め、外務省退官後は防大で教鞭をとっていらっしゃいました。 彼の著書によりますと、あの戦争、支那事変や太平洋戦争は、アメリカのウォール街やイギリスのロンドンシティのユダヤ系の金融資本家達によって仕組まれた。日本の関わった戦争だけではなく、ロシア革命やベトナム戦争、朝鮮戦争、アメリカの南北戦争など多くの国家間の争いに、ユダヤが深く関与しているとの内容です。
例えば、支那での泥沼の戦いは日本を疲弊させたいソビエトとソビエトにコントロールされた社会主義者達の影響力が強かったアメリカによるものと理解しておりました、だからアメリカは表向きは国民党の蒋介石を支援し、ソビエトは中共の毛沢東を支援していたわけです。つまりソビエト、コミンテルンが主役でその影響力を受けていた、アメリカを使い日本を支那大陸に縛り付けておいた。そう考えておりました。
分かりやすく整理しますと。日本はソビエト、コミンテルン、彼等に操られたアメリカによってあの戦争の引きづりこまれた。との解釈でした。
ところが違った。馬渕さんの著書によると、アメリカの狙いは国民党、蒋介石と日本を戦わせ蒋介石を疲弊させて相対的に毛沢東を優位にし、中国を共産化することが、目的であった。そうです、民主主義の国、アメリカの狙い、当時の支那を共産化することにあったのです。
続く。

宗像が世界遺産の候補に
自分が皇祖皇宗の神々をお祀りさせていただくようになり、約6年が経ちました。直接、お世話になっておりますのが、宗像の三女神のお一人、イチキシマ姫の神です。
大変、お綺麗で、歌とか踊りの大好きな女神様。皇室を御守りになり、なおかつ、海外で修理固成のお働きをなさった神々のご報告をお受けになるそうです。
遺産の候補になった沖ノ島は普段は一般の方は、入れません、たった一人の神官が交代制で、御守りになるそうです。ですが、年に一回だけ、我々も島に入れる日があります。いつか自分も、宗像に赴き、姫神様達に、お会いしたいものです。



今回の伊勢詣
今回の伊勢詣で、色々書こうかな?と、おもいましたが、月夜宮の参拝の後に、すぐそばの小学校の校庭に貼り出されていた、この、言葉。あーきょうも、伊勢に来れてよかった。この言葉こそ、神様と自分達を繋ぐ言葉です。



夏至
今日は一日遅れの夏至だそうです。伊勢の二見の夫婦岩の沖合い500メートルに猿田彦ノ神が神柱としてお立ちになり、富士神界と太陽神界を一直線でお結びになるそうです。



近所を散歩
皆様、こんにちはー、今晩はー。久々の勝手報告です
昨日はお休みでしたが、2時半に歯医者さんの予約があり、どこへもいけへんなー。よし、治療が終わったら家の回りを散歩しよ、そう決めてました。先ずは近所の白瀧不動さん。普段は神社巡りの自分ですが、このお不動さんは、年に二回位、お参りさせて頂いております。何故かといいますと、以前ホームページでも申し上げましたが、自分が神様を祀るようになったのは、店で起きた、超常現象がきっかけでした。女の幽霊、狐のイタズラ、本当に胃に穴が空くくらい怖い思いをいたしました。実際に下血しましたから。
その頃は古神道なんか縁もゆかりもありません。とりあえず自分が17歳の時に帰幽した母にお願いしたのと、頭に浮かんだのが白瀧不動さんでした。雨の中、お不動さんの龍神様に「怖くて仕方がありません。なんとか、していただけませんか?」そうお願いいたしました、ら、その直後に大変、勇気を頂ける事象が起こりました。それからのご縁になります。こちらにはお堂があるんですが、自分は小さな滝壺とそこに立つ御神木にご挨拶いたします。昨日も持参したお酒をお供えし、天津神、国津神、ご一緒にこの大和の国、そして世界規模での修理固成をお願いさせていただきました。それと、自分が住んでいる地域、仲尾台やその周辺の皆さんが安心して暮らせていただいているお礼を申し上げました。自分は約25年仲尾台に住んでいますが、山手駅周辺で凶悪事件が起きたという話は聞いたことがありません。

その後は本牧山頂公園を散策に出掛けます。本牧の丘陵地帯に出来た公園、緑に囲まれた遊歩道を行きます、勿論、片手には缶チューハイ、しかもロング缶!暫くいたしますと、キャンプ場の文字か目に入ります、「えっ、本牧にキャンプ場!?」そうです、本牧にテントはって泊まれるんです。その場所に目をやると、円状に草が植えてありました。
中に進み植え込みに入りました。何だか空気が並みではありません、空を見上げます。スコーンと天空まで繋がっている、そんな感じ。以前に二ヶ所で同じ経験、一つは伊勢外宮の別宮、多賀宮。もう一ヶ所は同じく伊勢内宮の別宮、風日の宮。この二ヶ所に立って空を見上げますと、この地が天空まで繋がっている気がいたしました。皆さん、信じないかもしれませんが、伊勢神宮や富士山、皇居の上空には神界があり、時折、高祖皇宗の神々がお降りになるそうです。



まさか、本牧上空に神界が?そんなことあるわけないっぺ。なんて考えながら、空を見ておりましたら、先程、お参りいたしました、白瀧不動さんの方角から一段低く、長っぽそい雲が此方へ、向かってきます。よーく見ますと、白い龍のよう。「あれっお不動さんの白龍のお出ましか?」
その雲はどんどん近づいてきました。そして自分の真上のあたりでその雲は姿を変えました。その時です、丁度、龍のお腹のあたりが虹のように光始めました!写真だとあまり良くわかりませんが肉眼では、はっきりと見えました。 宮崎駿監督の、千と千尋ではありませんが。



ただ、一つ心配な事があります。白瀧不動さんの回りは以前は雑木林だったんですが、あっという間に造成され宅地となってしまいました。新しくお住まいになられる皆様、龍神様にくれぐれも、ご無礼の無きようにお願いいたします。平成たぬきのなんとかになりませんように。



神様を祀るということ。

自分は色々な超常現象にみまわれて、皇祖皇宗の神々を祀るようになりました。マツルとは、言霊では神様と一体化すること。もう一義は、自分の仕事をもって陛下の民草を幸せにすることだそうです。馬渕さんの本に同じ事がかいてありました。

今日は命日

お彼岸の中日、自分の実の母の命日。豪快な女でした。
自分が17才母が49でした。

たくせん

馬渕さんの二冊目の著者を読んでます。
前の本は、世界を金で征服する力。今回の本は日本の対処法。なんと古事記を引用。彼は御神勅を授かった人。久々の興奮!

心ある方は絶対に読んで

昨夜、お知らせいたしました。馬渕睦夫さんの著者、この国を思うお心ある方は是非お読みになって下さい。実はこの著者で記されている事実は自分が師と仰ぐ、神道家、相曽誠治と同様でした。
トホカミエミタメ。

必読

元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏の本、久々のハードインテリジェンス。ユダヤ社会がいかにこの世界を動かしてきたか、様々な戦争を引き起こしたのは、誰か?是非、ご一読を。

倉本聰さん

久々に倉本聰氏をテレビで拝見。今まで観たテレビ番組でもう一度観たいドラマは、と問われれば一も二もなく、倉本聰さんの「前略、おふくろ様。」人と人との間にあるきびを教えて頂きました。先生、いつまでも、お元気で。

プレスコード
皆さん、プレスコードという言葉をご存じでしょうか。これは戦後間もなく占領軍に押し付けられた、政策の一つです、日本の報道、出版活動を規制するための規定です。例えば、占領軍総司令部、まあ、マッカーサーの批判とか、東京裁判の批判、ソ連や米国、英国、支那、朝鮮人への批判、戦争弁護の宣伝、戦争犯罪人への弁護、オモシロイところでは、占領軍将兵と日本人女性との懇交などおよそ30項目にわたり、日本の新聞記事などに、占領軍、戦勝国に都合の悪い記事は、一切まかりならんというものでした。
まあ、言論統制です。日本を再度、民主的な国家にすると謳ってたアメリカが言論を統制したわけです。この綱領は昭和27年講和条約発効により失効いたしましたか゛、未だあるのではないか?と、引っ掛かる出来事が最近2件ありました。
一つは私が期待すること大なる、次世代の党の山田宏さん、残念ながら先の衆院選で落選してしまいましたが、彼に関する記事があるビジネス雑誌に載っていました。一流のビジネスマンが愛読しているとされる本の記事の内容は山田氏が、いかに党内の自分の役職、彼は幹事長ですが、その立場を利用して、比例優遇を獲得、ずいぶんと自己の当選の為に、手練手管を駆使したか、というもの、よく読みますと、記事の中に、次世代の党をよく知る関係者の証言、勿論、山田氏に大して批判的な話ばかり、なぜか全員仮名のA氏、B氏、C氏。他の記事にも目をとおしましたが、仮名の発言者の記事なんかありません、それと田母神さんが公明党の大物議員の選挙区に立候補した理由も、全く的外れ。ページをパラパラめくると、マルボロなど外資の企業の広告が一番目立つところに。そして、各コラムの執筆者はアメリカの留学経験者が。もう、アメリカユダヤの臭いがプンプンです。
そしてもう一件は、産経新聞社がアメリカのユダヤ系人権団体「サイモン・ウィゼンタール・センター」に謝罪いたしました。なぜ謝ったのか、それは、外国人の書いた3冊の著書を紹介したからです、その著書の内容の中に、ユダヤ人虐殺を否定する記述があったためにユダヤ系人権団体から強い圧力を産経新聞はうけました。実は30年位前にも同様な事かありました。ある日本の雑誌が外国人の書いた記事を掲載したが為に、なんと廃刊においこまれました。記事の内容は、今回同様、アウシュビッツで何万人も毒殺することは不可能というものでした。やはり、「サイモン・ウィゼンタール・センター」からの抗議によるものでした。アメリカをいや世界の経済を牛耳るユダヤ人の凄まじさに驚愕したことをまだ、よく覚えています。山田氏にしても産経新聞にしても、自分としては、本当に我が国のために大変重要な役割を担っている方々です。日本人が、占領政策によってなくされた精神性を取り戻すのを、彼等は恐れているのでしょうか。皆さん広告収入に頼るマスコミの言う事を鵜呑みにしてはいけませんよ。保守系と思われる読売新聞でさえ、慰安婦記事の捏造をこさえ続けてきた朝日をあんだけ、必要に糾弾し続けているのに、社説では、靖国に代わる追悼施設を造れなどと、大蛇族みたいなことを書いております。、ユダヤ資本、アメリカに楯突くような、記事は書けないんでしょうね。
アメリカは同盟国ですが真の日本の独立は断じて許さないようですね。いつもコントロールできるように。

石原莞爾
やはり、ドイツでイスラム排斥がかなり顕著。あの満州建国を立案、実行した、石原莞爾の言葉「あの当時のドイツ国民は、ヒットラーを必要とした」ヒットラーは軍人ではありませんでした。一、政治家でしたよ。

支那の言い分
支那は日本が侵略したと喧伝しておりますが、当時、我が国は国際法にのっとって、支那に軍隊並びに民間資本が大陸におりました。その我が国の軍隊に挑発を重ね、同胞を殺したりしていました。これだけは皆様調べてみてください。イスラム国の蛮行をみて。

アシュケナジー・ユダヤ

熊吉君が買ってきたあるビジネス雑誌。自分のイチオシ、次世代の党の山田宏さんをこき下ろしておりました。広告主を見てみますと、目立つところには、外資系ばかり、フフーン。日本の汚名をそそぐ輩はアメリカにとってこのましくない。皆さん、メディアにはくれぐれもご用心。

敵は太平洋のかなたに有り

アメリカは村山、河野談話を安倍さんが引き継ぐと表明したことを歓迎。敵は中共のみにあらず、あの大戦でわるかったのは日本、だから戦犯を合祀した靖国に行くな。よーく考えてみましょうね。

国体の危機におこるもの

東日本大震災、阪神淡路、どちらも時の政権は日本を良く思わない大蛇族でした。では関東大震災のときは?じつは大正時代は共産主義、社会主義思想が一番日本に入ってきた時代。日本の国体を揺るがしかねないときに大祓いがあるような気がいたします。

大晦日
おせちも無事終わり、年越しの蕎麦をいただき、紅白。今年も素敵なお客様に恵まれ、また出逢いましたね。予期せぬお別れも、ございました。皆様、良い年をお迎えください。我々陛下の民草がしっかりしていれば、この国はいつまでも安泰です。
皆様、いつも本当にありがとうございました



色々お悩みの自分を含めた貴方に!
その昔、岡尾国光という天才肌のキックボクサーがおりました。順調に勝ち星を続けていた岡尾はスランプにみまわれ、全く勝てません、ジムの会長は鬼といわれた黒崎健時、黒崎は岡尾選手に右ストレートだけを練習させました、岡尾選手は泣きながら右ストレートを打ち続けたそうです。
そして見事なKO勝ちをおさめました。右ストレートは基本中の基本です。

矢沢

すんません。矢沢、武道館いってまいりました!今年はいつも以上に良い気をいただきました。いつもありがとうございます!

永ちゃんのコンサートが終わり、声を枯らして永ちゃんコールを送った回りの見ず知らずの皆さんと握手をして、「また、来年、武道館であいましょう。お疲れ様。」の挨拶。その後に行った神保町の飲み屋でオーナーからバンバンおごっていたたきました。スタッフの方々にも良くしていただきました。本当に幸せな愉快な夜。「永ちゃんあいしてるぜー!」



私は無理なく五キロやせました。
最近、常連さんから「あれ、店長やせたね。とか、締まったね。」なんて言われます。
この夏で約五キロやせました。夏前は69キロありましたが、今は64キロ位に落ち着いております。身体も締まってきました。
何をしたかといいますと、大した事ではありません。まずは食事ですが、朝はおにぎり1つか小さなサンドイッチを二つ程度、それに御茶かコーヒーを一杯。昼は食べませんが味見程度にご飯物を寿司のにぎりほどのやつ二回位、お新香やキムチや煮物などをほんのひとくちほど、勿論営業中はかなり味見はいたします。中休みには、以前はしっかりと丼などを頂いておりましたが茶碗一杯のご飯にお菜をほんの少し。食べない時もあります、そんなときは、チョコレートやかりん糖ビスケットなどをほんの少し、炭酸は三ツ矢サイダーのちいさなのを一日かけて一本。ともかくあー御腹いっぱいにはいたしません。空腹を感じたら少しだけつまみ食い。
夜は営業中はお出しする品の味見、ラストオーダーあたりから生ビールを飲みはじめ、店にいる間に焼酎と併せて五、六杯帰り際のリセットで、石川町のサンクスさんか麦田トンネルそばのセブンイレブンさんで缶チューハイを一本と豆系のおつまみか歌舞伎揚げを少々。家に着くと熊吉君が用意してくれたおかずで、また一杯。つまみも多種揃えてくれますがどれも二口ていど、ですから我が家は三日間くらい同じ品が並びます。ご飯は小さなお碗に軽く一膳。そして即寝ます。寝る直前飯は一番太ると言われてますが身体が慣れてくれました。
朝には、腹筋、腕立て伏せ、背筋、ダンベルを使ったスクワットを各20回。約10分で終えます。毎日ではありません、週に5日程度です。要は御腹をいっぱいにしないこと、空腹を感じたらほんの少し口に入れる。これだけです。
皆さん、無理なく、我慢なく痩せる、一度お試しになりませんか?


Before


After



立花隆
いまNHKで立花隆さんが、臨死体験を心と脳で考えていらっしゃいます。魂を考えていません。限界がありますね。死に体の角栄をあつかったのとは、次元がちがいます。

APEC閉幕

中国と付き合う一番の方法。常に正々堂々、理にかなった議論をして、諸外国を味方に確保しておく。対立を避けて主張をしないことこれこそが平和を失う危うい道。千年まえの聖徳太子様の教えだそうです。
安倍ちゃんキチンとやってますね。

ある休みの日

東京駅到着、駅の階段で老婆がお二人、互いに支え愛ながら、ゆっくりと降りていきました。なんか、いい一日になりそうです。これから、皇居にむかいます。

皇居にて搖拝をすませました。皇后様の傘寿のお祝い、皇室の弥栄を祈念。
お堀端の公園、今なお、皇室を御守りする和気君清麿公にご挨拶、御姉様の広虫様も大変な霊能者。このお二人のお力で天皇家は万世一系を貫けることができました。さーこれから靖国へ。

旧近衛師団指令部、近衛とは天皇陛下直属の部隊。原在は東京近代美術館工芸館になっております。
少し歩いて北の丸公園。自分の一番好きな公園。二十歳の頃、走ったし、デートもしました。昼となく夜となく。でも夏の夜はご用心。蚊とでばがめ。懐かしの場所。

武道館まえ、くれには矢沢行きまーす。

きょうも静かな靖国でした。

靖国の能楽堂にて津軽三味線。ダンチョネ節には、自分もゴロー君もぐっときました。「飛行機乗りにーは、娘ーはーやーれぬよ、やれぬ娘がね、いきたーがるダンチョネー。」だってゴローは海軍の飛行機乗りの依代だもん。

靖国のシメは参道脇のお土産屋さんで、味噌おでんと生ビール。雨がふってきました。

最後に、味噌なめてます。

この小さな背中に英霊達の願いがあります。

つくりかため

昨日、典子様と千家さんが出雲にてご結婚。天津神の系統の御両家が国津神、オオクニヌシ様の出雲にて結ばれました。
「このただよえる国のつくりかためをせよ。「豊葦原瑞穂の国を平らけくしろしめせ。」出雲系と天孫系仲良く国つくりかため。
まことおめでたい。御約束の「天皇陛下万歳」

峠より朝日をのぞむ。

史の本を読みました。その中でも繰り返し読んだのが、司馬遼太郎さんの「峠」。 幕末の越後長岡藩の家老、河井継之助の話。薩長と徳川のどちらにつくのか?どの藩も悩んでおりました。継之助の長岡藩は徳川十七将の一人牧野家。時代の趨勢は薩長方にありましたが、長岡藩は譜代大名、簡単に徳川家を裏切るわけにはいきません。そこで継之助が実行したのが、武装中立。僅か七万石の長岡藩に近代的な武装を施し、徳川にも薩長にも与しないというものでした。藩内を一本化するために、強権も発動いたします。そうしますと、とうぜん反発する勢力も現れます。その総大将があの「米百俵」の小林虎三郎。継之助と虎三郎は実は親戚でしたがそんなことはお構い無しに虎三郎は継之助の政策をケチョンケチョンに藩内でけなします。
ある晩に虎三郎の家が火事で燃えてしまいました。焼け出された虎三郎は妻の実家に仮住まい、これを機会に彼の心を溶かしたいと考えた継之助は当座の生活用品を山のように荷車に積み上げ見舞いにいきます。虎三郎は継之助の好意に一も二もなく涙を流し感動いたします。普段は小林家に追従するもの達が無心されると思い、あの火事以来誰もよりつかない。なのに藩内に知れ渡っている不仲のおみしゃんが、おのれの財を割いて恩を与えてくれた、これをどう感謝すればよいか。「なーんだ、虎三郎もたいしたことはないな。これで静かになるだろう。」 継之助は、そう思いました。が、ちがった。虎三郎は膝を正してこう言います。「これほどの財物を頂戴しても、お返しできるものが無い。ついては足下の物の考え方、施政、人の使い方に大きな誤りがある。それを申し述べて、このご恩情に対する御礼としたい。」
その後、長時間にわたり継之助のやりかたを、いちいちあげて痛論し、間違っていると叫び、さらに欠陥をえぐり、刺すような論評を加えました。その激しさ、痛烈さは気の弱い者なら卒倒するほどだったそうです。これがお礼なのです。さて、一方の継之助。彼は向かっ腹をたてながらも「偉い、どうにも虎は偉い」よほど興奮したらしく感動した継之助は町中をほっつき歩き何人かの知人に、虎三郎の偉さを話て回ったそうです。仇敵である継之助から窮迫中に物を恵まれてもいささかの卑しさもみせずに「これはお礼である」といって、こっちの頭が割れそうなくらい痛烈な批判をした。
「どうだ、この卑しさのなさは。」継之助の感動はそこにあったようです。人間が偉いということは、こういうことだ。
孟子の言葉に「いかに威武ある存在からおどかされても、心を屈せず、いかに貧乏しても志を変えたりせぬ男を偉い男という。」
さて前振りが、かなり長くなりました。朝日新聞という会社があります。南京大虐殺、従軍慰安婦など随分のご活躍をなされました。最近になり、やっとこさ従軍慰安婦は偽りの報道だったと今更認めました。お蔭様で隣国はいまだに謝罪を求め、同じ日本人が国連においてもこの問題を騒ぎたて、米国議会においても我が国は無実の罪をきせられました。その責任を認めたかのように思われるましたが、ここのところ、文春、新潮さんの広告を拒否。皆さん、これが大蛇族の正体。嘘八百を並び立て国家の尊厳をおとしめる。都合が悪くなると強権をはっする。まるで隣国と一緒の反応。筆でメシ食ってんだたら筆でかえせ。ホントずるいんですよ。大蛇族。

今夜九時よりTBS
今夜九時よりTBSで「遠い約束」が放映されます。終戦直後、満州で朝鮮半島で何があったのか?いつもボロクソにけなすTBS,時々キラッと光る番組をつくります。以前放映された倉本聰さんの「帰国」も素晴らしかった。

千玄室さんの言葉

本日の新聞記事。特攻隊に志願、生き残った、裏千家の元家元、千玄室さんの御言葉。「孫達は戦争から逃げる話ばかり考えている、逃げるのではなくどうしたら戦争を防げるのか考えてほしい。」

靖国と私3
さて、明日は終戦記念日。ここ数日の間に随分と気合いをいれて、ブログをかきましたね。
何故、今靖国なのか。結論から申しあげますと、中共の覇権主義から、我が国を守れ!これが眼目。アメリカと中共のパワーバランスが崩れる前に自国をしっかり整えなさい。戦えということではなく、戰にならないように知恵を働かせましょう。ということです。あの3.11から随分とこの国が変わってきました。日本の文化、歴史が世界で高い評価をうけています。先ずは、自国の素晴らしさを我々日本人自身が再認識すること、それが愛国心となっていきます。自国を愛せずどおして国を守ることができましょうか。
あの敗戦によるアメリカの占領政策によって見事に日本人は骨抜きされました。二度とアメリカに牙を向けることが出来ぬように、精神性をなくせ、過去の歴史と断絶させろ。そうして、六十九年がたちました。でも脅威はすぐそこまでせまっています。幸いなことに安倍さんが獅子奮迅の御働きをなさっています。
我々にも出来ることがあります。それは歴史力を磨くこと、あの戦争を考えるとやはり、幕末のペリー来航あたりまでさかのぼりませんと、全体像はつかめないきがいたします。その後の倒幕、富国強兵、日清日露、太平洋戦争。日本国内だけではなく世界の動きをいっしょに見るべきだとおもいます。
靖国の英霊は大変、ご心配なさっていらっしゃいます。「もうあんな思いをするのは俺達だけでたくさんた゜貴様らしっかりと歴史をたぐれ、戰にならぬように頭をつかえ!人をみろ!俺達が命を捧げたこの国を守り抜け。いいな!」

最後にある靖国訴訟で靖国側補助参加人の御婦人の意見陳述をのせさせていただきます。彼女の御主人はルソン島て゛戦死なされました。遺骨も遺品も無く御主人の名前が書かれた紙一枚が桐の箱だけが帰ってきたそうです。
「もし首相が靖国に参拝したことで傷つけられるというお方がおられるのであれば靖国の妻として、外国の意向に気兼ねして首相の参拝も思うにまかせず、天皇陛下の御親拝も得られない現状は、その何万倍、何億倍の心がの傷つくことです。私にとって夫が戦死すれば必ずそこに祀られると信じて死地に赴いたその靖国神社を汚されることは、私自身を汚されることの何億倍もの屈辱です。私は原告の方々も靖国神社に参拝すべきだと言っているわけではありません、韓国の大統領に参拝をお願いしているわけでもありません。日本の総理大臣が英霊との約束を守り、靖国神社に参拝するのは当然だと言っているのです。このままではもの言えぬ英霊があまりにも可哀想です。」
以上

靖国と私2
ではなぜ靖国が騒がれはじめたのか、大きな理由のひとつには、皆様もやっと目が覚めたとおもいますが、覇権主義もろだしの中国共産党によるものです。1998年、江沢民前国家首席は各国の駐在大使全員を集め「日本に対しては、歴史問題を常に強調すべきだ、永遠に言い続けなければならない。」と指示いたしました。経済力豊な日本をコントロールするためです。79年A級戦犯が合祀されてから6年後から中国は靖国問題で日本を非難しはじめます。早い話最初はなんにも言ってないんです。
ソ連の弱体化と伴って中国は対日戦略を友好戦略から切り替えます。それまではソ連に備えるため日本はもっと軍拡すべきと言ってたそうです。
まあ、日本のメディアが中国に日本叩きのネタを差し上げたようなもんです。そして外圧に屈した中曾根元首相が靖国参拝をやめました。中国にたまを握られた国会議員が靖国に代わる追悼施設をつくれなどと、手前かってなことをいいだします。中共は長い年月をかけて、日本の共産主義化を謀り工作を続けています、最終目標は日本が現在保有している国力の全てを中国共産党の支配下におき中共の世界解放戦に奉仕せしめること。最終目標には天皇を戦犯の首魁として処刑。1972年中共の秘密文章「日本解放綱領」です。そんな彼等にとって靖国やそこに集う人達は邪魔で邪魔でしょうがないんでしょう。あの戦争は確かに無謀で悲惨な戦争でした。広大な支那大陸に軍隊を貼り付けたまま、太平洋を戦場に米英と戦うなんて正気の沙汰ではありません。それでも彼等は戦ったんです。末期には十分な訓練もうけられず片道切符で爆弾抱えて、敵艦目指し、よたよたと飛んでいった英霊もいます。気温60℃洞窟陣地の中、どろどろに溶けた戦友の遺体の脇で死ぬまて゛闘いぬけと命じられた英 霊もいます、蛸壺陣地を退くに退けずに夜陰にまぎれ、敵兵の肝の汁をすすりながら闘いぬいた兵士もいらっしゃいます。
彼等が何故最後まで戦ったのか、それは自分の命と引き換えに家族を国家を守ろうという崇高なまでの意思であります。彼等は靖国で会おう、そう言って散華なさいました。自分はあるご縁ありまして、元陸軍特攻隊の方に昨年お会いすることができました。約2時間お話をしていただきました。私がお訊きしたかったことは、2つ。出撃前のお気持ちはどうでしたか?彼は「やってやるぞ、という気持ちでいっぱいでした。」そして、皆さんは靖国で会おうと誓いあって出撃なされたのですか?「はい、その通りです。」
部屋の奥に、靖国の御札がお祀りされておりました。

靖国と私
今晩はひとつぬけてます。只今、衆議院予算委員会を見ております。そして、今夜は靖国の御霊祭。久々に筆をとる代わりに、親指を括っております。
なぜ、しがない丼屋の親爺が自分の商いと何等関係のない話を長々と、自らの店のホームページに載せているのか? 皆さん不思議にお思いでしょうね。
先ずもって挙げれば、靖国、強いては英霊にたいするマスコミ、一部の識者と云われる方々の靖国批判に対する義憤、これが第一。戦後七十年にもなろうとしておりますのに、たった数ヵ国、中国、北鮮、そしてどおにも、自国の首を己で絞めはじめた韓国。この三か国。それとユダヤ人社会の米国も同様。彼等と呼応し日本人なのに、この国を貶めたい日本人がいること。朝日、毎日、TBS、先日までのNHK。大江健三郎など進歩的文化人と呼ばれる人。そして、小沢一郎、加藤紘一、河野洋平等の政事屋。彼等に共通するのは、反天皇家、反原発、反靖国。そして日本は侵略国家であるという主張。どれもこれも、一番喜ぶのは、中国や韓国。
自分が小さい頃、回りの大人で、日本が侵略国家で、あの戦争は侵略戦争だ!なんて言う大人はいませんでした。それが証拠に自分達があの頃に夢中になって、作ったプラモデルは戦艦大和であり、零戦であり、飛燕でした。少年漫画でも「紫電改のタカ」、「暁戦闘隊」など戦記物も随分と読みました。映画も「トラ・トラ・トラ」、「日本の一番長い日」、少しくだけ「兵隊やくざ」、「拝啓、天皇陛下様」あの戦争を舞台にした作品は沢山ありましたね。それから、土曜か日曜の夜に太平洋戦争のアニメをやっておりました。たぶん、7時台だったとおもいますが、ミッドウエイ海戦の時の「飛龍は健在なり」との電文は、まだ耳にのこっております。それと同時に「人間の条件」や「きけ、わだつみの声」のように、左がかった作品もあったのも事実です。たぶん小学生の頃、昭和40年代でした。余談になりますが、人間の条件の中で、中国共産党の兵士、八路軍がでて来る場面があるんですが、やたらと八路軍の兵士が優しい正義の味方に演出されていました事をまだ良く覚えています。あの 戦争に関しては、負けはしたけど、アメリカ相手に日本は勇敢に戦ったんだ。自分はそう思っていましたし、回りの大人、自分の両親も同様でした。
これも良く聞いた話ですが、海外でドイツ人と会うと「こんどはイタリア抜きでやろうな!」と言われ、大いに盛り上がったなんてことを大人達は愉快そうに話ていました。
別段、私及び私の回りの大人達が過激であった訳ではありません。渋谷、上野あたりに行けば傷痍軍人が募金箱を前に、よくハーモニカを吹いていらっしゃいました。母方の親戚が集まれば、輝夫叔父さんは零戦に乗っていたとか、戸口の叔父さんは憲兵だったとか、そんな話をしていました。小学校の同級生でS君という子がおりました。彼は中学から武蔵に入った秀才です、自分なんかと出来の違う子でしたが二人でよく遊んだのが兵隊さんごっこ、片方が日本軍、片方がアメリカ軍。もう一人、Hさんという女の子は、西澤君、兵隊さんごっこやろうよ。なんて家に遊びににきました。彼女も中学からお茶の水に行きましたから、なかなかの才媛でした。自分としては、兵隊さんごっこよりも、お医者さんごっこ、したかったのに。
中学時代は、運動部はサッカー部、週一の文化部は将棋部でしたが将棋なんてまともに打つ訳ありません。皆で軍歌とか春歌とか歌ってました。同級生の一人が喧嘩なら東京で一番といわれたK高校に入りました。彼等は一年生から三年生まで集団で、電車の路線ごとに登校するそうです。我々の地元は、中板橋、常磐台あたり、彼等は東上線一家と名乗り、年に一度は一家をあげて靖国に参拝したそうです。また、地元には、走る暴力団といわれた喧嘩専門のGという暴走族がおりました。彼等は濃紺の特攻服を着用していまして、その胸に詩集、いや刺繍は、尊皇愛国とか、護国尊皇とかでした。勇壮な言葉でした。
それと年に何回か、12チャンネルで懐メロの番組をやってましたが、鶴田浩二さんが海軍の軍服を着て、「同期の桜」なんかよく歌っていらっしやいました。新宿には、国民酒場?なんて名前の大衆酒場があって軍歌が流れていた気がいたします。
共産党や社会党それらのシンパは、自衛隊は違憲なんていってました。後、うろ覚えですが、共産党のポスターに、松本清張、手塚治虫さんなんか、私は日本共産党を応援します。の言葉と共に載っていたような記憶がありす。これらが昭和40年代から50年年代中頃までの自分の回りのあの戦争に対する空気でした。 本当の意味であの戦争を知っている人はもう殆んどいらっしゃいません。戦地に行ったり内地で体験なされた方々はいらっしゃいますが、何故あの戦争に巻き込まれていったのか、身をもって体験していなければあの戦争を知っていることにはならないそうです。
では、戦後すぐ、昭和二十年代にあの戦争を身をもって体験した方々は靖国や戦犯と言われる人々に対して、どうゆう思いであったんでしょうか。
昭和二十七年、サンフランシスコ講和条約が発効されました。同じく六月より、全国一斉に、戦争受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願書の署名運動が始まります。当時の人口数約6700万人、署名はなんと4000万集まったそうです。勿論、人口数の中には子どももふくまれますから、殆んどの大人が賛成したことになります。その後、12月の第五回衆議院本会議では「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議を与野党一致で可決。遺族援護法も可決され,刑死した戦犯のご遺族に年金を支払うようになりました。この時に、尽力なされたのが、社会党の堤ツルヨ議員達でした。当時の社会党にはまともな議員さんがいらっしゃいました。
前回でも申しあげましたが、A級戦犯であった重光葵は、外務大臣に返り咲き、日本が国連に加盟した時に「日本は東西の架け橋となる」の演説で喝采を浴び、国連本部の前庭に自ら日章旗を高々と掲げ、こう詠みました。「霧は晴れ国連の塔は輝きて高く掲げし日の丸の旗」、また、重光葵氏が亡くなったとき、国連は黙祷したそうです。A級戦犯に国連が黙祷です。講和条約においては、そして国内においては、昭和28年の「全戦争犯罪者の名誉回復の立法」を与野党万票で可決。この瞬間より我が国に戦犯は存在いたしません!これは靖国がやたらと遡上に挙げられる上でまた我々の戦後史感の中で大変重要なことです。国会において靖国や戦犯をうんぬんするのであれば先の法案を国会において廃案にしてからでなければならぬ話です。付け足させていただきますか、同じくA級戦犯の岸信介は総理大臣に、加谷興宜は法務大臣になりました。

ありがとう朴さん
従軍慰安婦と言う言葉ありませんでした。正しくは特殊慰安婦、特殊慰安所。これも朝日新聞の造語。でも朴さん本当にありがとう。貴女のお陰で我が国でも、関心が高まり、朝日が虚偽報道を認めました。これからも集金平さんとの益々のご活躍を期待いたします。

朝日の撤回

報道について一部取消の記事を掲載。なにをいまさら、次は南京虐殺の自社の記事も取消なさい!大蛇族のインテリなんて、この程度です。

小松氏
米国のアーミテージ氏他、親日の方々が、安倍さんを表敬訪問。集団的自衛権に謝意。安倍さんは、言ったそうです。内閣法制局の小松氏のおかげですと。癌と戦いながら、我が国を他国から守るため彼のお働きは後世において必ずや評価されるはずです。

おかげさまで24周年
三日坊主は、本日をもちまして24周年を迎えることが出来ました。何もわからないズブの素人が集まってここまでこれたのは、情け深いお客様、太っ腹なスタッフ、ありがたき仕入れの業者さん、自分の家族、愛すべき我妻の熊吉。
お約束の「天皇陛下万歳!」いつもありがとうございます!



ゴロー君日帰り旅行、箱根編
先週の月曜日に、妻の熊吉君、居候の熊ゴロー君のTwo+oneで、箱根日帰り旅行にいって参りました。
お目当ては箱根神社、箱根は何度もいっておりますが神社は初参拝。朝一番で整体を終え、根岸線、東海道線で小田原に向かいます。車中では勿論、熊吉君の用意したつまみで、お清めの一杯。

小田原到着後、駅構内でフリー切符を購入。案内所に外人さんの多いこと。二人の係員さんが英語で対応していらっしゃいました。

円安効果でしょうか?列車を乗り換え、湯本に到着、久しぶりの湯本駅構内はすっかり、リニューアルされておりました。
こちらでバスに乗り換え箱根神社に向かいます。やはり回りは外人さんばかり、桜の時期は特別なんでしょうか?
元箱根でバスを降りて、箱根神社へ。
腹もへりましたが先ずは神社へ。

御祭神は、ニニギノ命様、コノハナサクヤ姫。そして土地の神様、九頭竜様。

長い参道をエッチラ、コッチラ上っていきますと、朱も鮮やかなご本殿。何時ものことですが、国家の繁栄、天皇家の安寧を祈願いたします。隣には九頭竜様がお祀りされていますのて゛此方にもご挨拶。
キングギドラですか?

空を見上げると本当に龍神様のような雲が二つ。この雲は我々が湯本に戻り日が暮れるまで、その姿を変えませんでした。

参拝後、ポスターなどでよく目にする芦ノ湖畔の大鳥居に降りました。途中で疲れたゴロー君もあの足の長さです、石段はかなりきつかったんでしょう、参道脇にへたりこんでしまいました。

湖畔の大鳥居に着きますとちょうどお日様が鳥居の真上、天照大御神にご挨拶いたします。木漏れ日のなかお日様を撮りました。なんだか赤いもんが写りました。

ゴロー君も、腹減り減りハラー状態、道行くカップルが羨ましいァいつか、おいも伴侶がほしかー!そんな様子のゴロー君。いつか、お父さんが、よか娘さんばみつけちゃる。

適当な食堂を捜しましたが、やはり箱根は観光地、なかなかバランスの良い店は見つかりません、そこに飛び込んで来たのが、腸詰屋の看板。おいしい肉詰め、ベーコン、サラミ等々、すべて試食可、缶ビール片手につまみ食い!どれもいけてます!お土産を三品買い昼飯を頼みます。

願いしなのが、ソーセージ盛り合わせの定食。どれも美味しくいただきました。次回はこれんを頼み、酒の肴にしようと、熊吉君。

腹ごしらえも終えて、次の目的地、大涌谷へ、芦ノ湖遊覧船に乗り、桃源台。

こんな感じ、以前、旅行会社に勤めていましたので、箱根には何度もきていましか゛初めての湖上遊覧船。不覚にも酔いが回り、ほとんど寝ていました。途中、富士山がその勇姿を表した時には、バチっと目が覚めました。
下船した後は、ロープウェイて゛大涌谷へ。芦ノ湖を眼下に眺め、富士山を遥かにうかがい、口ずさむは「箱根八里」滝 廉太郎さんの名曲。かなり難解な歌詞ではありますが、なんかこー力が湧いてきますなー。きっと音魂が入っているんでしょう?

大涌谷に着いたら又々びっくり。回りは本当に外国人ばっか!アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカなんでも来いって感じでした。大涌谷名物の黒たまごをヨーロッパの若い女性が一生懸命皮剥いている姿は微笑ましい。

大涌谷の次は、休日一番の喜び、日帰り温泉!!
ロープウェイとケーブルカーを乗り継ぎ、強羅にくだります。強羅から塔ノ沢までは箱根登山鉄道、いつ乗っても気分の良い列車デスね。あー箱根に来たぞと、そんな気分にさせてくれます。
本日の日帰り温泉は「箱根湯寮」さんです。塔ノ沢駅より徒歩5分。里山を見晴らせる、静かな施設、まだオープン一年、木々に囲まれた中の露天風呂でゆっくりくつろげました。男性浴場は10人いませんでしたが、前の露天風呂に見覚えのあるお顔?偶然にもうちのお客様でした。二人で世間話をしていましたら、皆さんサウナに向かいます、なにがあるのかな?中に入りますとスタッフの方が大きな大きなうちわをもっています。熱くなっている岩にアロマの液体を振りかけますと、サウナの中じゅうに梅の香りがたちこめました。ここからが本番、あの大うちわで一人ずつ、ばさー、ばさーと扇いでくれました、そうしますとサウナの上部に溜まっていた熱い空気が身体を襲います!ここは、じっと我慢の大五郎!でもやっぱアツツーい!上段に座っていた外人さんは赤鬼の形相で外に飛び出して行きました。「かくなれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」、おまけに本日大サービスで二回目に突入!もういいって。ホントありがとうございます。
外に出ましたら、水風呂に飛び込んだー!でも意外と癖なりそう。
熊吉君と待ち合わせの時間がきましたので休憩室へ、うたた寝所もありかなり親切なつくりです。
最後の〆は生ビール!古民家風の造り、囲炉裏での炙りものが売りのようです。料金は大人1400円。あの施設にしてはお値打ち。貸し切り個室露天風呂あり。俺もいつの日かお忍びで、ででで、でー?
湯本まて゛無料送迎バスあります。しかし、外人さんの多いことには驚きました。富士山、桜、円安、種々の要素が働いているんでしょうね。 自分は今から、25年くらいまえまで旅行会社の営業をしていました。当時はともかく海外旅行、アウトバンドといいますが、なんて゛外国人にこの国に来てもらうインバンドに力をいれないんだろう?と不思議に思っていました。四季があり南北に長くそれぞれのの気候、自然の恵み、優しく親切な国民性。そしてなによりも治安のよさ!皆さんこの国にきていただけたら、きっと一発て゛恋におちるはずです。ではまた。



大祓
今日の読売新聞で、安部さんが朝日を名指しで批判、読売も朝日を。いよいよ、我々のレベルで大祓いが始まりました。



何を今さら熊ゴロー君漫遊記3
次なる目的地は上立神岩、沼島には奇岩が多いそうで、これもその一つです。

ここに来る前に蜂の襲撃を受けましたのでゴロー君はかなり脅えておりました。「さあ、記念撮影だ。皆さんに手を振って!」こうやってよく見ると、私の腹は立派なビア樽ですな。
これにて沼島観光終了です。帰り道にまた一風呂浴びてレンタカーを返し家路につきました。運転から解放された私は淡路のバスターミナルから飲み始め三宮の立呑屋、新神戸でスタンドの生ビール、新幹線とひたすら飲み続けました。
この漂える国の修理固成をなせ。上級の神々より仰せつかった修理固成は今尚、イザナギ様を筆頭にアマテラスオオミカミ様、オオクニヌシ様等、陽の神々によって続けられているそうです。日本のヘソ淡路島またいつの日か訪れてみたいものです。
さて、明日から連休を頂き、伊勢に行ってまいります。遷宮後の伊勢神宮楽しみです。

最後に熊ゴロー君がご挨拶。

なんをいまさら、熊ゴロー漫遊記2

なかなかの迫力でした。又、いつの日か機会があれば30メートルの大渦潮を見に行きたいものです。 下船した後は近くの干物屋さんで地魚の干物や練り物を購入。ここの娘さんが商売の上手なこと。でも値段は良心的でした。 お腹も空いてきたし今夜のお宿に向かいます。途中、淡路に流された淳仁天皇の御陵に立ち寄りご挨拶。その後洲本へGOGO! 宿に着くとお部屋係の仲居さんが案内してくれます、この仲居さんが「愛ちゃん」といいまして、若くて可愛いんですよ!本当にこのての話になると、いつもオヤジ丸出しになってしまう私です。この愛ちゃんは高知のご出身で、ご実家のお隣が神社だそうです。裏山には大きな岩が二つあり、一つはコノハナサクヤ姫、もう一つはイワナガ姫と小さな頃から教えられたそうです。正に神様ご縁。いつも感謝しております。 宿に着いたら先ずはお風呂。このホテルさんは並びの三軒同じ系列のようでどのお風呂に入っても宜しいとのこと、大阪湾を見ながら、あー湯っくりさせていただきました。 夕食はお部屋にて淡路特産の海の幸、そして淡路牛に勿論、玉ねぎ等々もう勘弁して下さいと言うくらいのご馳走でした。愛ちゃんの給仕とご馳走で熊ゴロー君もご満悦、なんか少し照れているみたい?意外とウブなゴロー君です。

さて、いつものことですが旅先では本当に早く寝てしまいます。 翌朝は日の出を見ながら露天風呂、これぞ旅の醍醐味です。この日も天候は悪く朝から厚い雲に覆われていましたが水平線と雲の僅かな隙間からお日様を拝む事が出来ました。「アマテラスオホンミカミ」。 朝食も淡路盛り沢山、少しの間横になりたいのですが時間がゆるしません。洲本市内に元町でお世話になっている厳島神社がありますのでご挨拶に向かいます。宿を出る時はドシャ降りですが神社に着くと不思議と小降りに境内に入ると雨はやみ、神前のご挨拶を終えるとお日様が顔を出してくれました。何だか自分の体内には高天原仕様のGPSが内蔵されていて、神前に立つと自動的にお日様が顔を出してくれるようになっているような気がいたします。 参拝後、本日の目的地、沼島に車を走らせます。沼島へは土生港より船で渡ります。所要時間は約10分でもあなどってはいけません。海が少し荒れれば欠航となります。この島は別名おのころ島と呼ばれ、古事記でイザナギ、イザナミの二神によって国生みが始まったとされています。それとその昔多くの渡来人(ユダヤ人)が上陸したとも言われております。聖徳太子の時代にはかなり多くの渡来人が朝廷に仕えていたそうです。彼等が祀って出来たのが、京都伏見稲荷。姓で秦とか畠山とかは御先祖様を辿ると渡来人に行き当たるそうです。 戦後、進駐軍が沼島に上陸し、色々調べたらしいですよ。また有名なのが沼島の鱧。夏には祇園あたりに出荷するそうです。残念ながら食しませんでしたが。 話を戻します。土生港より沼島に着いたら又々どしゃ降り。待合室でおにぎりをほおばり、雨が止むのを待ちます。小雨になりましたので先ずはおのころ神社へ、小さな山の上にあります。枝をかき分けかき分け登って行きますと足元にはなにやら赤っぽいのがぞろぞろ動いています。そう、カニです。あんまり気持ちいいもんではありません。

やっとの事、神社に着きます。御祭神はイザナギ、イザナミ様です。お祈りをしていますと、又々、お日様が顔を出してくれました。ありがとうございます。この本殿の奥に戦没者の慰霊碑がございました。丁寧にご挨拶をいたしました。ふと碑の裏側を見ると、戦没者のお名前が記されていました。日清、日露、そして先の大戦。この島より出征なさった方々、日清、日露は数名のお名前でしたが太平洋戦争で戦死なされた方々は百数十名でした。多分、島の人口は数千人?南方の激戦地に行かれたのか、途中、輸送船が沈められたのか、かなり気になるりました。 そして次の目的地へ。

なんでいまさら、熊ゴロー漫遊記
昨年の9月2日、3日と連休をいただき淡路島へ行ってまいりました。 最近我が家の旅行はほとんど神社参りです。伊勢、鹿児島、高千穂など天津神に縁のある土地を訪ねております。今回はこの国の修理固成の部隊長であります、伊邪那岐命の本拠地、淡路島です。前から早く行かなくてはと思っていましたがついつい九州に足が向いてしまいました。
昨年の春頃でしたか?淡路島で大きな地震が朝方にありました、その日、自宅の神棚のお水が甘酒のように白く混濁していました。勿論お 水は毎朝替えてます。なんだか「早く挨拶にこい!」そう言われている気がして今回の淡路行きとなりました。
メンバーは自分と妻の熊吉君、居候の熊ゴロー君
先の鹿児島旅行において固い契りで結ばれた我々三人?組です。
今回は現地での滞在時間をなるべく長くしたいため、深夜バスを使いました。が、二度とお世話になりません!首は痛いし眠れないし!これが神戸まで続くのかと思ったら気が重くなりました、が、回りを見渡すと他の皆さんはグッスリと眠っていらっしゃいました。あー公家育ちの私には辛い道中でした。
横浜をでて約八時間、神戸三宮に到着です、高速道路から見える街並みは、あの震災が嘘のような復興ぶりでした。海岸伝いに立ち並ぶ高層マンションは外国の一風景みたいに自分の目には映りました。そして神戸三宮のバスターミナルに到着、ターミナルと言ってもJRの高架下を利用したものでした。ここでバスを乗り換え、明石海峡大橋を渡り淡路島へ、あいにくの雨であまり景色は遠くまで見通せませんでしたが眼下の明石海峡にタコが泳いでいるのが見えました?そんな分けありませんね。
津名港でバスを降り予約していたレンタカーを借ります。年に二度の運転です、無事の生還を祈ります。最初の目的地はイザナギ神宮です、(申し訳ございません、漢字に変換出来ませんでした。)
この漂える国の修理固成をなせ。造化三神の命を受けて伊邪那岐、伊邪那美の二神はおのごろ島に天下り、まぐわいをして次々と島を産んでいきます。最初に産んだのが淡路島です。
いの一番に伊邪那岐様にご挨拶。

まだこの時は雨があがっていましたが、ご本殿で大事な祝詞をとなえていますと、又々雨がパラパラ、まさか傘をさすわけにはいきません。天皇家の御安寧、この国が、いついつまでも平和で豊な国でありますようにと、そうしますと雨も止み、お日様が顔を出し、おまけにこの後、トンボの大群が境内を乱舞いたしました。伊邪那岐様から「よしよし、遠いところからよくきたな。しかとお前の祈り受け止めたぞ。」そう言われたような気がいたしました。

長い車中でしたので身体はベトベト、ともかく一風呂浴びたかったので都志にある、五色温泉「ゆーゆーファイブ」さんで旅の垢を落としました。何故かサウナの中のBGMは昭和歌謡、うーんいい塩梅。さて風呂の次は飯、ガイドマップを広げ食事処を探します。淡路島は玉ねぎで有名ですが牛肉も名産だそうです、淡路産の子牛を松坂に出して、それがあの松坂ビーフとなるそうで、島起こしで沢山のお店が牛丼をメニューに入れてます。一番ベーシックなうどん屋さんを選びました。自分が牛丼と冷たいうどんの定食、熊吉君は鱧天井と温かいうどんの定食。どちらも1000円。これが美味いのなんの!牛丼の割りした具合もピッタリ、うどん出汁の香り、汁も抜群!おまけに名産の鱧天!いいお昼ご飯をいただきました。今までで一番の満足度。お金をかければいくらでも美味しいもんは頂けますよね。1000円の喜びでした。

さて腹ごしらえを終えたら、島を南下し鳴門海峡を目指します。そうです、あの有名な「渦潮クルーズ」です。福良港に着きますと又々、雨が降りだしました。一番渦潮が見える時間に合わせました。しばらくは足湯に浸かり出港の時を待ちます。そうこうしているうちに乗船時刻、おかげさまで雨はまた止んでくれました。船の名前は咸臨丸とくれば、もう気分は勝海舟。港を出て鳴門大橋に近づくにつれて海にはいくつものうねりが現れます、そうしますと自分のヘソの辺りから力が沸き上がってくるんです、「オーオー!」って感じです。人間は一靈四魂といいまして、四つの魂があるそうです。そのうちの二つがヘソの下、丹田のあたり、もしかしたら自分の荒魂が感応したのかも知れませんね。淡路島は本当に日本のヘソかも!今回、初めて船に乗った熊ゴロー君はビビりまくりでした。

船はいよいよ鳴門大橋の真下に、残念ながら大きな渦潮は見れませでしたが、小さなのはそこかしこに。

小野田寛郎さん
ここんとこ、小野田さんの本を読み返しています。どうにも彼は先に去った英霊に活かされていたのかな?
「おい小野田、時代も人の心も変わり、靖国はうるさいことになってる、俺たちが貴様を内地に無事帰すから、靖国の為、俺たちの為に一働きしてくれんか?」小野田さんの言葉です。
「自分は靖国に何かあったら最高裁までは闘います。」ちなみに小野田さんのご実家は御神職であります。

小野田寛郎さん
先日、小野田寛郎さんが亡くなりました。自分のように何時も靖国に心を寄せている人間にとっては、かけがえのない方でした。
終戦後もルバング島においでゲリラ戦を展開、友軍の再度の上陸まで戦いぬくおつもりだったそうです。陸軍中野学校を出ているため職業軍人と思われていますがそうではありません。中学を出て支那の漢口で貿易商社に勤めていたそうです。その頃の小野田さんは英国製のスーツをきて外車乗り回しダンスホールに入り浸っていたとおっしゃっていました。二十歳で徴兵され内地に戻り陸軍中野学校へ回されます。この学校は諜報員を養成する学校です。中野学校の教育方針は「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥をさらしても生き延びよ。できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂である!」ですから彼は何度も家族がルバング島に呼び掛けに来てもその姿を見せることはありませんでした。昭和49年3月9日、元上官である谷口少佐命令を受領し三十年の戦いにピリオドを打ちました。 日本に帰ってからの小野田さんはマスコミの壮絶な取材合戦にさらされます。ご本人いわく、「私は軍人精神の権化か軍国主義の亡霊かのどちらかに色分けされた。同じ時代の人々も、それぞれ命じられたところで戦った。散華もした。国民全てが爆撃や銃撃にさらされた。おびただしい命や財産が失われた。その意味では一億総武装の時代であった。それなのに、なぜ私だけが、権化や亡霊として世論の俎上にあげられるのだろうか。私はただ少し遅れて帰ってきただけの男である」。
そんな時に田中内閣から100万円の見舞金が届きました。マスコミからこのお金をどう使うのか尋ねられ、靖国神社に全額奉納いたします。と答えたところ、又々非難の手紙がどっときました。なぜ祖国の為に戦って命を落とした戦友に礼を尽くしてはいけないのか、私は生きて帰り仲間は戦死した。私は戦友たちにお詫びし、心の負担を軽くしなければこれからの人生を生きていく自信がなかった。「散る桜、残る桜も散る桜」私は三十年の戦場をそんな心境で生きてきた。
万事、カネ、カネの日本に絶望感を覚えた小野田さんはやはり自分の小学生の娘に「特攻隊は犬死だ。」と教えた教師に憤りを覚えブラジルに行った兄を頼って日本を離れました。その後、農場を経営なされ成功されま昭和五十五年の金属バット事件にショックを受け「財団法人小野田自然塾」を設立なさいました。
人間一人では生きていけない。家族が一番大事だ。そうおっしゃっていました。



靖国の先輩がなくなりました。
小野田寛郎さんが亡くなりました。靖国の大事な先輩であります。
彼が伝えたかったことの100万分の一でも自分は皆様に伝えます。靖国の魂よ永遠なれ。



あけましておめでとうございます
おせちも無事終了しました。皆様のハレのみけです、一年間で一番気を使います。大晦日は熊吉君と元町の厳島神社に一年間のお礼を申し上げ、中華街の妹分のかおり、さおり姉妹のいる酔仙酒家にて年越しそばならぬ年越しスーラータン麺をいただき生ビールを何杯か飲んだら年末からの疲れがどーっと出まして8時頃には寝てしまいました。
さて昨年は富士山が世界遺産に、東京オリンピックも決まり、和食がユネスコの無形文化財になり陽当たりの良い一年でした。
国家のリーダーでこれだけ世の中が変わっていくのか、まだまだ我々のような街場の弱小店舗には実感がわきませんが、それでま昨年に比べてみると少しずつ上向いてきたような気がいたします。
あの震災から三度目の冬を迎えました。今から思い返すと一つの太くて大きな流れがあるような気がいたします。江原さん美輪さん達によってスピリチュアルな世界がごく普通にテレビで紹介され、パワースポットなるものに人気が集まりました。富士山ブームもその一貫でしょう。そして亡国の政権、民主党の登場となります。あの当時は本当に大変な事になった心底憂いてました。いつの日か彼等が何を目的として国政をにぎったのか、少しずつ明るみにでてくるはずです。人心も荒んでいきました。そんなところであの大震災が起こります。しかし困難ななかでの被災者の皆様のとられた行動、そして日本中の国民の奮闘、善意は世界を驚かせました。あるフランス人は被災地の人々をみて「私は神を見た。」とおっしゃったそうです。 ただあの大震災で一万八千人近くの方々がお亡くなりになりました。しかし被災地の方々が我々に残したものは、日本人として一番大切なものでした。今更ご紹介する必要もありませんね。反して醜悪だったのが時の政権、そして東電の幹部達でした。自分は今でもあの震災は日本人の禊ぎだと思っています。戦後のアメリカの狙いどおり日本人の精神性を骨抜きにしろ!過去の歴史と断絶させろ!なるほど彼等の目論見は成功し、長い我が国の歴史の中ではかなりイビツな日本人であるような気がいたします。一昨年は古事記編纂1300年。明治天皇没後100年。そして今年は出雲大社、伊勢神宮の遷宮など日本の神々に大変関係深い二年間でありました。政治では自民党が復権し保守の安倍総理大臣が返り咲きました。
古事記に天石屋の話がございます。高天原で乱暴狼藉を働く須佐之男命を嘆き悲しんだ天照大御神は天石屋に籠もってしまいました。世界中が闇に包まれてしまい他の神々は何とか天照大御神を石屋から引き出す事に成功いたします。そしてこの世に光が戻ります。これが岩戸開き。
確かにこの国は平和で豊になりました。それと同時に日本人の根っこの部分をどこかに置き忘れてきました。これは占領政策という外的要因が大きく働いていますが、多分暫くの間は私達日本人はこの忘れ物をとりに行く事に時間を割くことになるでしょう。近い将来、大変な困難に襲われないように。
岩戸は開かれたような気がいたします。
さあ皆さん今年はもっと良い年になりますよ。三日坊主が請け負います。
トホカミエミタメ。天照大御神様にお伝えいたします。
今年一年間宜しくお願いします。



永遠の0
いよいよ、「永遠の0」が劇場公開されます。歴史は凡そ60年以上たたないとその真実は見えてこないそうです、あの戦争を戦った方々の二世代後、そのあたりで真実が現れるらしいです。一人でも多くの若い人に観ていただきたいですね。

あははー赤穂浪士
またまた、ハリウッドスターの俳優がスマスマに、キアヌ・リーブスが出演、赤穂浪士をモチーフにした映画の紹介。我が国が戦争に負けた後、アメリカは赤穂浪士の映画を目の敵にしたんですよ。ケネディ大使、昨夜のマッケンロー、今回の赤穂浪士、アメリカもかなり焦ってます。1日も早く憲法改正して中国の覇権主義に手をうたなければなりませんね。 本日、ご縁ありまして特攻隊で生き残られた方のお家を訪ねお話をきかせていただきました。詳細はまた。

イトカワ
夕刊に大変興味深い記事がありました。それは2月にロシアに落ちた隕石がイトカワに酷似しているという話。イトカワは研究者の糸川博士の名前。かれは旧日本軍の戦闘機作りに携わっていました。
だから探索機の名称は旧日本陸軍の名戦闘機「はやぶさ」、そのはやぶさが探しあてたのがイトカワ。そのイトカワが衝突したのが、最近我が国の領空を頻繁に侵犯したりメドベージェフ時代に日本が先の大戦で負ける寸前に不可侵条約を一方的に破棄し、火事場泥棒宜しくぶんどった北方四島の実行支配を強めました。そんなロシアに旧日本軍の戦闘機にゆかりあるイトカワが一撃をくらわした!そう思うと愉快な話。て、かなり無理がありますかね?

あーびっくり!
只今、靖国そばの居酒屋さんでモツ煮堪能中、生ビールのあとはホッピーでしょう。
夕刻の参拝となりました、薄暮の中、小さいお子さんと一緒に参拝しているお母さんがいらっしゃったんです。
近くですれ違いましたところ、なんと外国人の方でした。本日の読売新聞の社説で阿部内閣閣僚の靖国参拝を批判する中、韓両国に対して、内政干渉と断じていました、ここまでは良かったんですが結びに靖国に代わる施設を造れとありました。
馬鹿者!!私が知るかぎり先の大戦ではほとんどの兵士が靖国に英霊として祀られる。そう信じ国家、家族のために、たった一つの命を捧げたんです。前にも申し上げたかも知れませんが戦後すぐに靖国に関するある署名があったそうです。集まった署名、その数4000万人!当時の成人の半数以上です。詳しくは資料が手元にありませんので伝えられませんが。
当時あれだけ悲惨な戦争を体験した日本人が靖国を擁護したのに、いま平和に私みたいにのほほんと暮らしている日本人がなぜ靖国を騒ぎたてるのか!それも戦勝国でもない中国と韓国の政治カードであることはわかりきっているのに!読売よお前もか?来月から産経だぞ! 何度も言いますが英霊は生きています。だけども彼らは何にも言えません、いまぼんやりした日本人のご都合主義で国家のために亡くなった人間との約束を違えるわけにはいかんのです。
靖国の代替施設を造る?それこそ長年にわたり我々の血税をもとに近代化を進めつつ反日教育を続けている国々の内政干渉に屈することになります。
あー今、居酒屋さんで、あおいてるひこさんの、二人の世界が流れています、少し頭をヒヤシンス。
皆さんに切にお願いします。是非とも靖国に行ってあげて下さい。それと悠就館に足をお運び下さい。併せてお願い申し上げます。死んだもんはなんにも言えんのです。我々の為に命を捧げた英霊に感謝するのが人の道です。理屈ではありません。

ごめんなさい。修正します。
今朝の新聞を読んで思い出した話があります。若い頃に読んだ落合信彦さんの本です。内容は、あるアメリカ人弁護士が人種差別主義者の弁護人になりました。彼は依頼人の人種差別主義者にこう言います。
「自分はあなたの主張する人種差別主義には100%反対するがあなたがそれを主張する権利があることを、私は100%保証する。」そんな話でした。在特会に罰金刑が課せられました。皆さんどう思われますか?
富田メモ
昨夜のテレビ番組で池上さんが靖国神社を取り上げていました。その成り立ちや英霊と靖国の関係などを分かり易く説明してくれたんですが・・・何故か富田メモの話がでてきました。
富田メモは何かと言いますと、元宮内庁長官の富田朝彦氏の残したメモに昭和天皇のお言葉がありました。どういうお言葉かといいますと「A級戦犯が合祀され、白取、松岡までもが靖国に祀らる、だから私は靖国を参拝していない。それが私の心だ。」 これが日経にのりました。その後、朝日などはA級戦犯の合祀をやめろと唱え続けたそうです。実はこのメモは不自然な点ところが随分とあるらしいんです、天皇は重い病の時にそんな話をするのか?とか宮内庁長官ならば必ず知っているはずの白鳥の字を白取と間違えていたり、手帳に後からこのメモが貼りつけてあったりしているそうです。
このメモを取り上げる必要性があの番組のなかであったのか?このメモを肯定するということは、あの極東軍事裁判を認め、また戦犯は存在し、天皇は戦犯を憎んでいた、ということになります。前にも書きましたがあの裁判は事後法で我が国を裁き、検事は全員先勝国より任命されました、検事の中で唯一人国際法学者、インド人のパル博士は被告人全員無罪の判決を出しています。また日本人の被告人を弁護したアメリカ人弁護士でさえ「国際法上合法である戦争で人を殺しても罪になるはずがない。」「公正を期すために中立国の判事をいれよ。」
「原爆を投下した者が裁く側にいる、広島、長崎の残虐性はいったい誰が裁くのか。」 あるアメリカ人の弁護士はこうも述べています、「最初はやりたくない仕事を仰せつかったとおもったが引き受けて調べてみると被告人の無罪を確信するようになり、裁判自体が不法であると思った。
もっと端的なのは、この極東軍事裁判の首謀者であるGHQの最高指令官である、ダグラス・マッカーサーでさえアメリカ上院軍事委員会で、日本の先の戦争の原因は主に自衛の目的であったと証言しています。
あーもうどうにもとまらないリンダもっと言いますと陛下は戦犯とされた人たちについて木戸内大臣にこうも、おっしゃっています。「彼ら、連合国、にとっては敵であっても私にとっては忠義の者であった。」と、それとこれは一番大切な言なんですが池上さんは昭和天皇が戦犯が祀られているから靖国を公式参拝しなくなったと述べていましたが、これは全くの間違いであります。陛下が参拝をお止めになったのは国際的な騒ぎになることをお避けになったからです。これは素晴らしい政治的判断であると元皇族竹田恒泰氏もおっしゃっています。その代わりに毎年、大祭の時には勅使をおくられております。勅使とは陛下の名代として儀式を執り行うのてので陛下ご自身が参拝なさったのと同じ意味をなします。
もう一つ言わせてください!!戦犯の何人かが処刑された日、陛下は政務室に閉じこもられたままだったそうです。部屋から出てこられた陛下は目を真っ赤にされていたど侍従だった村井長正氏は証言しています。それともっと言わせてください!!昭和27年から28年にかけて戦犯の釈放を求める声が高まり遺族援護法も与野党満票で可決され戦犯の遺族年金まで支払うようになりました。この時に非常に尽力なさったのが社会党の堤ツルヨ衆議院議員でした。当時の社会党の中には立派な方もいらっしゃったんです。やがてサンフランシスコ講和条約によってA級戦犯とされて服役していた賀家興宣氏は法務大臣に重光葵氏は外務大臣になり国連で有名な演説をしています。番組が終わったあと、うちの熊吉君がこういってました、「あまり歴史に詳しくない私みたいな者はこの番組を鵜呑みにする。」これがメディアの怖さです。ちなみに日経は朝日とは勿論、中国の人民日報とも親しい間柄だそうです。
終わります。
遷宮
いよいよ、天照大御神様が新しい御神殿にお移りになります。我々日本人は誰もが天照大御神様の分魂を頂いております。お日様の子、男の子は彦、女の子は姫。皆さんお日様の子。いつも明るく前向きに生きていきましょう。我々日本人は世界一の国に生まれたんだ。そう心に刻んでいきましょう。必ずやこの国は再生いたします。
今日は店の神棚にお供え物、スタッフの森住のおかげで季節のお花を飾ることが出来ました。
「トホカミエミタメ」
天皇陛下万歳\(^O^)/

終戦記念日
茨木のり子

「わたしが一番きれいだったとき」
わたしが一番きれいだったとき
街はがらがと崩れていって
、とんでもないところから
青空なんかが見えたりした。
わたしが一番きれいだったとき

わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた。

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残して発っていった

GHQ最高司令官
ダグラス・マッカーサー
1951年5月3日アメリカ上院軍事外交委員会
日本は八千万近い膨大な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいているのだということを理解していただなくてはなりません。その半分が農業人口で後の半分が工業生産に従事していました。
潜在的に日本の有する労働力は、量的にも質的にも、私がこれまでに接したいずれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者たちは、人間は怠けているときよりも、働き、生産しているときのほうが幸福なのだということを、つまり労働の尊厳とよんでもいいようなことを発見していたのです。
これほど巨大な労働能力を持っているということは、彼らに働くための材料が必要であることを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし、彼らは手を加えるべき原料を得ることが出来ませんでした。
日本は絹産業以外は、固有の産物がほとんどなにも無いのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれらの一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。

駐日ローマ法王代表バチカン公使代理、ブルノー・ビッテル神父

いかなる国家もその国家のために死んだ人々に対して敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国、敗戦国を問わない平等の真理でなくてはならない。
もし靖国神社を焼き払えば、その行為は米軍の歴史にとって不名誉このうえない汚点となる。歴史はそのような行為は理解しないに違いない。靖国神社の焼却など米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。国家のために死んだ者はすべて靖国神社にまつられるように、進言する。

明治天皇
よもの海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらむ。
はらからのむつびをなしてまじはらば、とつく人にへだてざるらむ。


天皇陛下万歳
靖国と私、その5
M上飛曹の遺書。
長らくご無沙汰致しましたが、そのご父母様お元気の事と御推察致して居ります。小生もその後大元気で勤務して居ります故、御安心下さい。貯金通帳と、写真を同封致しましたから御受け取り下さい。
1 国債貯金 長崎貯金支局そ49377 五円
2 普通貯金 福岡貯金支局そホ35299 百八円六十五銭3
3 普通貯金 福岡貯金支局そち19308 二十五円
4 普通貯金 長崎貯金支局そな34864 八円
四冊共印鑑無きに付き改印届と住所変更を郵便局にしてください。二十三日駅にて面会を待っていましたが、電報が未着であったかもしれませんが、残念にも面会せず出発します。
くれぐれも父母様、寒さに向う折柄御体に気を付けられて長生きして下さい。在満の兄姉様にもよろしく、ではさようなら。
御両親様
Iより

これがM上飛曹の遺書ですが、他の特攻隊員の遺書と比べてみると、彼のものはかなり異色です。ほとんどの隊員は両親に今迄、育て上げてくれた事への感謝の気持ち、そして自分の兄弟達への言葉、日本男子として死に場所を得たことは本懐であること、必ずや敵空母を轟沈します。そして今や何の迷いもないことなどを書き残しておりますが、彼の遺書を読みますと、ほんの少し海外出張にでも出掛ける人が家族に残した手紙みたいで、もう二度と会えない、間違いなく生きて還れない人間が父母に最後に伝えたい言葉にしてはあまりに淡々としています。
特に彼等はかなり初期の特攻隊でありますから、かなりの心の動揺があったはずなんです。
この後、年が変わり昭和二十年になるともう、特攻が当たり前になってしまいますがまだ、この段階では体当たり攻撃が存在することは、一般の将兵は知るよしもありません。いきなりの命令で彼は取り乱さなかったのか?一体どんな死生感をもっていたのか?前にも紹介しましたが私が鹿屋と知覧で見た二枚のお写真は眼鏡をかけていました、艦爆の偵察員たはいえ、視力がなければ飛行機乗りには成れません。サングラス?それとも伊達眼鏡?うーんもっと彼の事しりたい。
そんな時にホルモン焼き屋のほうちゃんから一冊の本を借りました。知覧にて陸軍特攻隊員の母と慕われた、鳥濱トメさんの話です。軍指定の食堂をやっていたトメさんは隊員達に「お母ちゃん、お母ちゃん」と呼ばれ出撃前の若い彼等をずいぶんと良く面倒をみてあげたそうです。
有名な話ですが、ある特攻隊員が出撃前に「母ちゃん、俺たち死んだら必ずホタルになって帰ってくるからな!」彼等が沖縄に飛んだその夜、食堂を開け放ち待っていたら、本当に二匹のホタルが店に入ってきたそうです。また、トメさんが亡くなったお通夜の晩に季節外れのホタルが飛んできてトメさんを迎えにきたそうです。

 

靖国と私、その4
前回は鹿屋での、思いもよらぬ出逢いの話でした。 まだ余談がございます。
翌日は知覧へ向かいました。鹿屋が海軍航空隊の基地、知覧は陸軍航空隊の基地でした。こちらにも立派な資料館がございます。特攻隊の映画の舞台にもなっておりますので、鹿屋よりも知名度があります。
さてこちらの資料館には陸軍航空隊の特攻で散華なさった英霊のお写真、遺言が展示されております。二十歳そこそこの若者達の残していったものを拝見しておりますと、自然と目頭が熱くなります、ハンカチを手に彼等の遺品をご覧になっている方々がいらっしゃいました。ほとんどが陸軍航空隊の資料ならびに遺品、遺書ですが一ヶ所だけ鹿児島出身、海軍の特攻隊で亡くなられた英霊の展示物がありました。ボードにお名前が記されておりました。お写真も数枚だけ、その内の一枚はあの鹿屋でお逢いしたM上飛曹でした。違うお写真でしたが、やはり眼鏡をかけていました。眼鏡をかけた航空兵、そのお写真からも、なんか興味深いお人柄が伝わってきました。
資料館での見学を終えて知覧市内に戻ります、ここでは武家屋敷が有名です。高塀や石垣に沿って武家屋敷が続きます。何軒かの見学を終えて道に出ると観光客の姿が見えません、今がシャッターチャンスとばかりにバッグから五郎君を取出し写真を一枚撮りました。そして我々が写真を撮った場所は、ある武家屋敷の玄関前でした。まだ御子孫が住んでいらっしゃいますので表札が掛かっています、お名前はM家です。そうです、あの鹿屋の英霊と同じ名字です。あれ?ひょっとしたら、この武家屋敷はかれのご親戚か、もしかしたら生家かな?なんて熊吉君と話をしていたら、どこからともなくお線香の匂いがプーンとしてきました。そこから駐車場まで移動したんですが、しばらくの間、二人のまわりにお線香の香りが漂っておりました。
その夜には家路につきましたが、どおしてもM上飛曹のことが知りたくてインターネットに彼の名前を入れて調べてみました。何件かの情報はありました、主に彼の所属部隊の出撃記録でした。ただ一つ彼のことを知り得る情報がありました。それは「海軍特別攻撃隊 遺書」というCDが1992年に発売されていました。ナレーターには、三浦朱門さん、佐藤愛子さんなど、そうそうたる顔ぶれです。実は佐藤愛子さんは私の見えない世界との関わりに大変大きな役割をなさっています。その話はいつかまた。
次の休みに靖国に行きました。遺書がCDになるくらいなら、靖国の遊就館に何かしら彼に関するものがあるのでは?残念ながら何も見つけることは出来ませんでした。それでは遺書が載っている本がきっとあるはずだ、本を探そう、そう決めた私は九段下の本屋さんへ急ぎます、彼の名を告げて遺書が載っている本を検索していただきましたが残念ながらヒットしません、よーし、そんなら三省堂の本店、ここしかない!九段下から神保町に駆け足前えー!三省堂のご案内デスクにたどり着き、彼の遺書が載っている本を再度検索。そしたら、ありました!!海軍特別攻撃隊遺書。ご親切に出版元まで連絡していただきましたが、もう絶版。担当者も退職。もう40年近く前に出版されていました。残された道は神保町に星の数ある古本屋をあたるしかありません。でも不思議なことに必ず見つけられる、確信がありました。三省堂の店員さんに聞きました、「このあたりに、軍事物に強い古本屋さんはありませんか?」さすがは三省堂、直ぐ調べてくれました。「お客様、すぐそばに、軍学堂さんという古本屋さんがあります。」
厚くお礼を述べ、軍学堂さんに走ります。本当にすぐ近く、階段を駆け上がり、「すみません、この本ありませんか!」若い店員さんでしたが、棚に向かって歩いていき、一つの小さな本を取出しました。「この本ですよね。」 そう、その本です。この続きはまた。
ヘイトスピーチ
今朝の新聞でヘイトスピーチに関する記事が載っていました。
私が連想したのは、酔っ払いが駅員に殴りかかる、子供のいじめにネットを使う。簡単に言うと弱い者いじめ、新大久保の在日の人達は日本人相手に商売してますから、一番立場の弱い者。駅員も絶対殴り返さないと知っているから暴力をふるえる、ネットの中傷も顔を隠せば何でも言える。卑怯者のオンパレード。
一番に自分を安全な立場において相手を誹謗、中傷する。かつて国際連盟において、我が国は人種差別を撤廃する議案を出したそうです。勿論、植民地を持っている列強は、賛成するわけはありません。隔世の感があります。終戦までは日本人には中世の名残があったのではないでしょうか。軍人は刀を持っていました。まさか飛行機乗りが実戦で使えるわけはありません。戦後のG.H.Q.の政策が効いてるんでしょう。日本人から精神性をなくせ、過去の歴史から分断せよ。
在持会の皆さん、旭日旗を使うのはやめてくれませんか、靖国の英霊はその旗の下で大事な命を国家のため家族のために捧げました。貴方達のために靖国も誤解されるかも知れませんし、中国、韓国、北朝鮮のプロパガンダに悪用されるかも知れません。日本では、また軍国主義が息を吹き返したとか、せっかく安倍さんが頑張ってるのに。あーもしかしたら、北鮮とか、中共とかK.C.I.A.とかの関係者がいるのかなー?NHKの連ドラで、会津の話をやっているそうですね。会津藩校、日進館、弱い者いじめは成りませぬ。ならぬものはならぬのです!

靖国と私、その三
そんなこんなの出来事で次の旅行は、鹿児島に行くことにいたしました。とはいっても、スポンサーは奥さんの熊吉君です。まず彼女の承諾を得なければなりません。
お伺いをたてたところ、前回の高千穂旅行ですっかり九州好きになった彼女は一も二もなく同意してくれました。話はそれますが、高千穂のお宿は「末広旅館」です、小さいけれどホスピタリティーはすんごく大きなイケメン若旦那が皆様を迎えてくれます。
話をもどしましょう。お店がありますので我が家の旅行は年に二回です。そのうちの一回は伊勢にご挨拶にいきますので、鹿児島行きは翌年の3月になってしまいました。メンバーは私と妻の熊吉君と居候の熊五郎君の三人の強兵です。熊五郎君は前回の伊勢神宮参拝より一緒に旅しております。彼は妻が連れてきた何体かのぬいぐるみの一人です。もう10年以上我が家におります。なぜか我々夫婦の喧嘩のとばっちりを受けるんです、五郎君は。一度目は怒り心頭の私にゴミ箱に投げ込まれました、運悪くゴミ箱の中には食べ残しのシチューが・・・哀れな五郎君はシチューまみれに。
妻はしくしく(T_T)五郎をシャワーで洗っていました。二度目は酔って帰った私にロベカルよろしく蹴飛ばされ一部屋飛び越しトイレのドアーに叩きつけられました。三度目はラックの上で他のぬいぐるみ達と埃をかぶっていたのを私は咎めます、「大事にしないんだったら、みんな捨ててしまえ!」妻の熊吉君は又々シクシク(T_T)、五郎を連れてシャワーで洗ってあげました。
実はこの日から妻の五郎に対する扱いが激変いたします。もう我が子のように接し始めました。家の中では直ぐ脇に座らせ、事あるごとに話しかけます。寝るときは大事に抱えてまるで自分の子供のようです。さすがの熊吉君も将来に不安を感じ精神的にまいってしまったのか?それとこれが一番怖いんですが天狗にかかったのか?(得体の知れない靈物に影響されることです。)ともかくしばらくは心配いたしましたが普通に会話もしますし、いつもの熊吉君でしたので安心いたしました。
その夏の伊勢には五郎も私達と同行し楽しい旅になりました。当然、鹿児島行きにも参加させました。鹿児島旅行の様子は以前の勝手報告をご覧ください。まあ、ぬいぐるみも見慣れてくると可愛いもんで、いつのまにか私も話しかけるようになってしまいました。少し前のテレビ番組で我々と同様に、ぬいぐるみだけの旅行ツアーが在ことをしりました。勿論、添乗員つきです、様々な理由で自分のぬいぐるみに旅をさせてあげたい。日本中からお客様のぬいぐるみが送られてくるそうです。なんか、わかる気がいたします。
そして本題にはいります。鹿児島旅行二日目は今回の旅の目的地、鹿屋です。この地は太平洋戦争中、海軍航空隊の基地でした、沖縄めがけ多くの英霊が特攻隊として散華なさいました。靖国で浄化されて以来、この鹿屋が頭の中から離れませんでした。現在は海上自衛隊の航空基地になっております。立派な資料館があり、館内には海軍航空隊にまつわる品々が展示されています、当然、特攻でお亡くなりになった方々の遺品もございます。この時は五郎もバッグから顔を出して我々と共に館内を巡りました。遺品の全てに目を通したいのですが、あまりに時間がかかります。取り敢えず展示室中央にある遺品だけ見て廻りました。そしたら何故か私の背中、後ろの角のケースが気になります、振り返って近寄って見ますと、航空兵の白いマフラーが広げられております、長さは一メートルくらいでしたでしょうか、このマフラーに彼の、出撃記録が筆によって記されておりました、その端になにやら絵が描かれております、なんの絵だろう?顔を近づけてみますと・・・、そうです、皆様ご推察のとおり、五郎の絵でした。

このスタイルです。足を前に出して少し前かがみでお座りしている、五郎いつもの姿勢です。この時、私は全てを悟りました。我々は鹿屋に行ったんじゃない、鹿屋に呼ばれてきたんだ!!
その後、とっても懐かしく温かで嬉しい気持ちになりました。毛のうねも、いつも心配そうで気の弱そうな雰囲気も五郎君そっくりです。前にもお話いたしましたように、靖国に関わる、一連の現象で自分には、海軍航空隊の英霊が懸かっているのは分かっていました、が、それが誰なのか?一人か?複数か?はたまた交代制か?まさか知る由もありません。それが、こんなかたちで会えるなんて。
彼はM.Iさんというお名前でした。九九式艦上爆撃機の偵察員でした。この飛行機は太平洋戦争の初期に活躍した二人乗りの爆撃機です。階級は上飛曹、御出身は鹿児島、昭和19年10月29日マニラ東沖で特攻にて戦死なされました。隊の名称は「至誠隊」。まだ20代半ばでした。遺品のマフラーの横にお写真がありました、飛行機に、もたれかかたポーズをとっていました。何故か眼鏡をかけているんです、飛行機乗りが眼鏡?実はこの翌日に知覧でも彼の写真を見たんですが、その写真も眼鏡をかけていました。伊達眼鏡でしょうか?あまりお顔の表情とかは、わかりませんでしたが、少し他の航空兵達とは違った雰囲気の方でした。
でも、自分の遺品に墨で熊のぬいぐるみの絵を書くなんて、どんな人だったんだろう?あのぬいぐるみは誰から頂いたんだろう?愛する人からかしら?それとも幼少の頃から大事にしてたのかなー?想像は膨らみます。この後、近くある慰霊塔にご挨拶してまいりました。残念ながら資料館内は写真撮影は禁止です。みなさまも、もし鹿児島に行かれましたら、是非とも鹿屋にお立ち寄りくださいね。
この写真はただ一ヶ所撮影可能、「永遠の0」の前にて、英霊の依り代である、熊五郎君と、直後に撮った写真です。

続きはまた。
ドックのあとは朝ビール
数年ぶりの人間ドックを終えて、山下公園で枝豆と生ビール。ベイブリッチを眺めつつ潮風をうけながらのビールは最高デス。街のありがたさ、体感中。下剤服用後につき、長居はご用心。あーきょうも良い天気だ!

ジェジエ!

今日の読売新聞に、ビックリする記事。ジブリの新作が「風立ちぬ。」。以前、荒井由美さんの「ひこうき雲」を主題歌に使う映画を作ると、宮崎監督が発表いたしましたことをツィッターにて、皆様にお知らせいたしました。その時に私は二人とも神様繋がりですから、きっと、いい映画になるでしょう。と申し上げました。なんと、新作の主人公は堀越二郎さん!お若い方はご存知ないかと思いますが、あの、零戦を設計した方であります。百田氏の「永遠の0」も話題を呼びました。戦前を否定するだけでなく、あの時代における世界情勢の中で我が国が、どおして、あの戦争に突入していったのか?もう一度考えましょう。よもすると、日本人は自国にしか目を向けません。それで、戦後の押し付けられた歴史認識。本当に日本だけが悪かったのか?安部さんになって、陰から陽に変わりました。自国の本当の歴史を知らない民族はいつかは、滅びます。安酒の私が言っても、説得力はありませんが生きている限り、百万回でも言い続けます、我々は世界で一番の国に生まれたことを。
靖国と私、そのニ
前回は靖国に関わる不思議な体験をお話いたしました。今回はその続きです。御霊をみたり浄化されたり、その後も色々な現象は納まりません。大きく分けると、天津神と靖国の二つになります。天津神の話はまたいつか機会がありましたらご紹介させていただきます。
多分四年ほど前のことですが、私と妻の熊吉君でソファーに座ってテレビを見ていました。ある俳優さん、お名前は今井なんとかさんで(スミマセン、失念いたしました。)、元自衛官の方です。彼の俳優になるまでの足跡をたどる、そんな番組でした。自衛隊時代の話から俳優になって彼の出世作となった舞台、「WINDS OF GOD.」という太平洋戦争のカミカゼを描いた作品の話になったとたん、「グラグラグラ」私達の座っていたソフアーが揺れはじめます、隣の本棚のアームライトも激しく上下に揺れていました、震度3弱くらいでしょう。部屋の一角だけの地震、通称「うちだけ地震」とよんでます。いまでは二人とも慣れっこです。信じていただかなくても結構です。
もう一つ、ほのぼのとしたお話をいたしましょう。題して「マイマイ君の恩返し」あれは昨年の1月でした、朝出かける時に玄関にある小靖国のわきに置いてある鉢植えを見ますとカタツムリがはりついていました。こんな真冬にカタツムリか?いままで全く気がつきませんでした、ペリッと手に取ってみましたが殻だけみたいなので、流しの三角コーナーにポイッと捨てて店に行きました。
日曜日の夜は奥さんの熊吉君が手伝いに入ります。仕事後に中華街の酔仙酒家にて水餃子で一杯やり家に帰りました。うちに着きドアーを開けると流しの水道の水が白糸のようにスーッと細く垂れていました。熊吉君は、アッいけない!と言って蛇口をしめます、その直後です、「父ちゃん、マイマイ生きてるよ!」そうです、彼は生きていたんです!冬眠からさめたか、どうだか、カタツムリの生態は知りません。が、彼は活動を始めました。しばらくは鉢植えでおとなしくしていましたが3月の終わり頃から活発に動き回ります、ある時は鉢植えに差してある小さな国旗のてっぺんに、またある時は零戦の操縦席に乗り込もうと試みたり、

まあ、こんな感じで「元気ハツラツ、オロナミンC」。私のカタツムリのいる風景は、どおしたって紫陽花とセットの梅雨時なんですが?まー靖国から英霊がカタツムリになって遊びにきたんだろう。そう熊吉君と話してました。それならばいつまでもうちの狭いアパートに居させたんじゃかわいそう、靖国に帰してやっぺ、そう思い、4月の桜の時に靖国の裏にある池のそばに放してやりました。「カラスの餌になんじゃねーぞ、また、いつか遊びにこいよな。」
その翌日、店を終えて家に帰ると台所のテーブルの上にお煎餅が置いてあります、よく見ると、なんと靖国のお土産でした。熊吉君に「おい、この煎餅どおしたんだ?」聴くと、熊吉君が営業から帰社したら、自分の机の上置いてあったそうです、内勤さんのお土産でした。あーこれはマイマイ君のお礼だ、アイツいい奴だな。 靖国で浄化されてから英霊が自分に、懸かってるのはもうわかっていました、それも海軍の飛行兵であることも一連の現象で予想はつきます。他にも色々起こりましたから。 よし、鹿児島に行こう、鹿屋にいって英霊にご挨拶してこよう。そう決めました。今回はここまで、次回は鹿屋での英霊との不思議な出逢い。キーマンは熊五郎君です。

ではまた。皆様ごきげんよう。
ニラレバ
今朝ほどの、料理番組でニラレバ炒めをやってました。今日は休みなので自分でつくったー!

その時に掛け流しラジオで、COOLJAPANの是非を問うてました。
是は30数パーセント、非は40分数パーセント。あーいや、ビックリ?多分、時間帯からすると若いリスナーが多いと思います。自分も少しだけ、海外に居た事があります。日本は世界の人々にどう写っているのか?よくわかりました。黙って自分を理解してくれ、という話は少し前の日本社会の話です。「青年は荒野をめざす」自分が十代の頃に一生懸命読みました。がんばれ日本男子、弁当なんか作ってるばやいじゃないぜ!弁当を作ってくれる女を、自分のものにしろ!そんな男に成ってください。ニラレバ炒めから話はとびましたね。ではごきげんよう。
でも今夜は母ちゃんのためにつくったー!
男の顔は履歴書
全柔連のセクハラ、相撲界のゴタゴタ、共通しているのは、トップ達の顔ですね。ダラーとした緊張感の無い顔ぶれ。その昔、安藤昇氏が言ってました。男の顔は履歴書。女の顔は請求書。
オススメの日本酒が金賞受賞
本日、お付き合いのある、野毛の太田屋さんから(酒屋さんです。)FAXをいただきました。内容は三日坊主の店長、オススメの日本酒、石鎚が今年度の、全国新酒鑑評会の最高位「金賞」を受賞されました!また、インターナショナルワインチャレンジ、純米酒の部門でも金賞を受賞されたそうです!!我がことのように嬉しいですね。

靖国と私 その一
G.W.も終わり、本日は振替休日をいだだきました。期間限定の「シルバー割引」、「ハズレナシ子供さんスピードくじ」、「東上線割引」なかなか好評でした。この勢いを駆って、鯉のぼり調子といきたいもんです。
鹿児島旅行での不思議な出会いについてお話しましょう。先ず始めに私と靖国神社の関わりについてです。
前にもこの勝手報告に書きましたが、5年ほど前から身の回りに心霊現象が起こり始めました。店に女性の幽霊が居着いたり、厨房に狐が住み着いたり、随分と恐い思いをさせられました。(今は全く心配ありませんから、ご安心なさって三日坊主にいらしてください。念のため。)
店の方は靈能者にお願いして、おさめてもらいました。が、その後もしばらく私の身の回りに色々な心霊現象がまとわりつきます、最初の頃は怖くて怖くて胃に穴があくほどでした。でも人間て、とっても便利な習性を神様から頂いているんです。それは何かといいますと、「慣れる」ということ。目の前でたダスターが飛び跳ねたり、灰皿の上の吸いかけのタバコがクルクル回り始めても「お、すごいね。」とか「よくやるよ、俺、忙しいんだから後にしてくんない。」みたいな余裕がでてきました。
そんなこんなが色々起こり始めて半年後に、友人の麻美ちゃんとうちの奥さんとで千鳥ケ淵の桜をみて靖国の屋台で酒盛りをいたしました。
まあ、随分と屋台ものを食べお酒もウーンといただきました。遅くに家に着きそのまんまバタンキューです。そしたら、お約束どおりに真夜中に、ウッとこみあげてきました、トイレに駆け込み便器とにらめっこです。だーるまさん、だーるまさん、にらめっこしましょ、吐いたら負けよアップップ当然、しこたま飲んだ私に勝ち目はありません!
一気にオエーとやったんですが便器の中を見てビックリ?!吐いたものが全部真っ白!タコ焼、おでん、焼き鳥、etC。全く色がありません!漂白したかのように真っ白でした。それと、いつもなら必ず背中を擦ってくれる妻の熊吉君は全く起きる気配がありません。一体全体、自分の体になにが起こったのか?食べあわせで何か化学反応でも引き起こしたのか、知らない間にバリュームでも飲んだか。全くもって不思議な夜でした。これが靖国での最初の不思議な体験です。
二度目はその三ヶ月後に起こります。靖国では毎年七月の上旬に「御霊祭」が執り行われます。あの広い参道一杯に屋台が軒を並べ、大村益次郎の銅像の周りに櫓を組み、老若男女が浴衣姿で盆踊り。それはそれは楽しいもんです。その時は私達夫婦と中学時代の同級生二人で参拝の後、屋台で一杯やりました。さあ、帰ろうか、と靖国のご本殿に目をやりました。友達二人はその時は、居合わせませんでした。妻と二人、両サイドからレーザービームを立ち上げるご本殿、あー今夜の靖国は気合いが入っているなー!そう思った瞬間!ご本殿の真上に真っ赤な人魂が見えました。本殿までは距離がありましたのでかなり大きな人魂です。その人魂が、クルックルッと螺旋条に回った後ビューと天空目指し飛んでいきました。横にいる妻に、「おまえ、今のみえたよな?」「うん、確かにみた。」衆人監視の中ですから、他の人々も見えていたはずですが?多分、私達夫婦にだけ見えたのかと思います。実は高千穂に行った時も不思議なを二人でみました。家の中では日常茶飯事ですので二人ともあまり驚かなくなりました。
この出来事の数日後、店の騒ぎの時にお世話になった靈能者のお二人(この方々は女性お二人のコンビです。)に偶然出会いました。靖国で起きた事を彼女達にお話すると、こう言われました。「あなたは靖国で浄化されたんだよ。」、靖国の誰が何のために、なぜ自分を浄化したのか、そこまでは教えてもらえません、御霊祭だから魂が帰ってくるのはあたりまえだよ、とのこと。この頃は何の知識もありませんから、浄化された、と聞いた時も、そーか、俺はきれいになったんだ、相当に汚かったんだな。そう言われれば、思い当たるフシは山ほどあります、叩けば埃が天井ごと、ドサッと落ちてくるような私ですから。
不思議な現象は色々と今に至るまで続いております。途中から神様の方に引っ張られましたので、魑魅魍魎の世界にチョッカイをだされることは少なくなってきました。
さて靖国がらみの不思議な話を続けましょう。私の行き付けの店に、山手駅近くのホルモン焼の「ほうちゃん」というお店があります。ほうちゃんとはウマが合うので、開店以来7.8年の付き合いになります。今では靖国に一緒に参拝したり、皇居の一般参賀に行ったりの間がらです。何故かこの店は保守色のかなり強い常連が多いので助かります。
この店の常連客でTさんというかたがいらっしゃいます。彼も昔の戦記物とかが大好きで、酔うと、ゼロ戦の話とか、海戦の話とかで盛り上がります。そんな彼から一時、旧海軍の戦闘機のプラモデルを随分といただきました。主にゼロ戦でしたが九九艦爆、彗星、そして海軍の飛行士の人形。空母「飛竜」などです。このうちの一部は家の玄関に靖国神社のお札、小さな国旗とともにお祀りしております。これらが数年後に重要な役割をはたします。

続きは次回。

淡路島
今朝、神棚の水を替えようとしましたら、コップのお水が、甘酒のように白く濁っていました。おりもありました。お水は毎日替えます。まさか腐るわけはありません。多分、神棚に穢れが生じたのかと思いました。神棚に穢れが生じるとは、あー情けない、自分のいたらさなさに、ガッカリいたしました。
しかし、店にきますと、パートさんに「今朝、淡路島で大きな地震があったんですよ。」との話。我が家には神棚が二つあります。一つは靖国の英霊を、もう一つにはアマテラスオホミカミ、イチキシマヒメノカミ、イザナギノミコト。この三体の神々を一緒お祀ります。祖父、娘、孫娘の関係です。
このうちイザナギ様の本拠地が淡路島です。古事記によりますと、イザナギ、イザナミのお二人が国生みなさったときに一番最初におうみになったのが淡路島。神々にも私達と同様に使命があります。この漂える国を修理固成せよ。天皇陛下を中心に皆が仲良く、幸せに暮らせるような国にしなさい。アマテラス様もオオクニヌシ様もスクナビコ様も同様の使命を受けていらっしゃいます。今回の地震は実行部隊の隊長であるイザナミ様がいよいよこの国にかかる穢れを祓う前兆ではないかとおもいます。
実は3日ほど前にうちの母が新しく購入した携帯電話が一晩中青い閃光を発したんだそうです。それも、あっちからのシグナルだったかも知れませんね?今年は10月に遷宮があるために毎年夏にいっている伊勢神宮は12月にして夏休みは淡路島に行きイザナミノミコトにごあいさつしようと、うちの熊吉君と話しをしていたところでした。なんだか楽しみが大きく膨らんできました。必ずやこの国の未来は明るくなりますよ!
熊五郎漫遊記
敷地内にある神社にお参りし英霊にご挨拶の後に史料館に入りましたら、随分と若い方々がいらっしゃいました。
隊員達お一人お一人の写真、そして遺書が展示されております、その一つ一つに目をとおしますと、目頭が熱くなるのは私だけではないでしょう。ほとんど皆さん二十歳そこそこです、一番若い方で17歳。十分な訓練もつまないまま、重い爆弾を抱いて二度と踏むことのない陸地を離れる時に何を思って逝ったんでしょうか。
一枚の写真があります。出撃前の隊員達が仔犬を抱いて笑っていました。鹿屋でも8月15日終戦を知って司令官と共に沖縄に飛んだ隊員達もいます。彼等の出撃前、軍用トラックの上で談笑している写真があるんですが、やはり皆、笑っているんですね。決意とか決心とかではありません、ましてや悲壮感でもありませんでした。全くの自然体です。作家の山岡荘八氏が海軍報道員として鹿屋基地で特攻隊の隊員達と生活を共にしていたそうです。
山岡氏は、彼等は必ず近日、死ぬことが決っている。それに底抜けに明るい。接すれば接するほど離れがたい美しさを秘めている。彼はその謎をどおしても知りたかったそうです。この疑問を大分師範出身、二十二歳の西田高光中尉にぶつけます、彼はその時、教え子の手紙に最後の返事をかいていました。この戦を勝てると思っているのか。もし負けて悔いはないのか。今日の心境になるまでには、どんな心理の波があったかのかなど、当時は決して口にしてはならない禁句を次々に浴びせる山岡氏に、西田中尉は重い口調でこう答えたそうです。「現在ここに来る人々はみな自分から進んで志願したものであること。したがってもはや動揺期は克服していること。
そして最後にこうつけ加えた。「学鷲(特攻隊員)は一応インテリです。そう簡単に勝てるとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです、おわかりでしょう。我々の生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながってますよ。そう、民族の誇りに。」彼が500キロ爆弾と共に大空に飛び立って逝った時、山岡氏は見送りの列を離れ、声を上げて泣いたそうです。息子にあうために中尉の母が基地を訪ねたのはその翌々日でした。

さて話は少しそれましたね。知覧はきれいな武家屋敷でも有名です。ここでも不思議な体験をしました、いつかまとめてお話しましょう。知覧を後にしますといよいよ帰り支度レンタカーを中央駅近くでお返しして、ともかく生ビールを飲める店をさがし、一息。場所はお寿司屋さんでした、鹿児島のお醤油は甘いんですが、二種類用意してくれました。鰹には甘い醤油が良いと思いました。食事もそこそこに芋焼酎をさがしに行きます。先月、横浜高島屋の催事場て知り合った焼酎維新館さんを訪ねます、鹿児島だけで芋焼酎が四千種類だそうです。気がとおくなりそうなのでおまかせにいたしました。

そしてお土産を購入、リムジンにて空港へ。まだ食べ足りないので空港にてかつ定食と晩酌セット。味噌汁のうまいことうまいこと。さすが枕崎!てなわけで鹿児島の旅。「熊五郎漫遊記」はこれにて幕となりました。あー九州はよか!
鹿屋での不思議な出逢い
鹿屋での不思議な出逢いはまだじっくり書かせて頂きます。鹿屋基地にある資料館の見学を終えて近くの慰霊塔に行き沖縄沖に散華なさった908名の英霊に、哀悼の意を表し桜島を目指します。

桜島口に近くなりますと噴煙による火山灰のため時折ワイパーを使います。間近で見る桜島は迫力満点です、廃業したホテルさんが目につきます。島を半周してフェリー乗り場近くの足湯で一休み。

フェリーで対岸の鹿児島市内まではアッという間につきます。このフエリーは24時間運航しているそうです。市内に入りましたら、島津公の磯庭園を散策、このあたりから空腹のため二人とも口数が少なくなってきます、散策は早めに切り上げてホテルに入りました。今夜のお宿は「城山観光ホテル」です。チェックインの際に嬉しい贈り物がありました。スタンダードツインのお部屋がスーペリアー何とかというお部屋にグレードアップされていました。予約を入れた時はJ.T.B.さんは後一部屋だけです。といっていたそうですが?あーこれは鹿屋の連中が「遠路はるばるご苦労さん」てプレゼントしてくれたんだ、そう思いました。
夕食はついておりませんので風呂とサウナで汗を流して繁華街の天文館へ、ここは鼻を効かせて悔いの無いよう飲み屋を探します。以外とコジャレた、イタリアン、フレンチの店が多かったし和食の店モモダンな感じです、横浜とたいしてかわりません。ンじゃつまりませんので、最初に目についた湯豆腐屋ノ暖簾をくぐります。

「ごん兵衛」さんという湯豆腐屋さんです。名物の湯豆腐と串焼き、酢の物をいただきました。きびなこ、牡蠣の串焼きは焼酎にピッタリ。湯豆腐も具沢山、二人で丁度です。U字のカウンターだけで女性二人が切り盛りしています。奥の調理場に三代目のご主人がいらっしゃいました。創業96年の老舗だそうで有名人の色紙も飾られています。ふとみると、あおい輝彦さんのお写真もありました。それで思い出したんですが少し前にテレビで紹介されたお店でした。我々ともう二組いらっしゃいました、そのうちの一組の方がごあいそといってから日本酒をすすめられるままに二本追加して飲んでいらっしゃたのが印象的でした、さすが96年老舗の力です、私も見習わなければ。カウンターの女性と楽しいやり取り、これも旅行の醍醐味。

店を後にして宿に帰りました。
翌朝は桜島からの日の出を拝むため露天風呂の浴槽に陣取ります、皆さん同じ目的で風呂は大にぎわい。日の出が始まると女湯から喚声があがります。

朝御飯はバイキング、沢山色々な物が食べたいので熊吉君とは別々のものを選択いたします、和食が続きましたのでこの時はアメリカンブレクファスト、でも最後にホテル特製カレー。暫くは動けん。ウップ。
さあ、今日は最終日、しまっていこー!目的地は知覧、鹿屋は海軍航空隊の基地でしたが知覧は陸軍航空隊の基地でした。鹿屋同様、多くの若者が沖縄めがけ飛んでいきました。最近は食堂の奥さんと隊員達の交流を描いた映画もありますね。
熊五郎漫遊記
チャーミングセール明け、三月四日から六日の三日間、鹿児島にいってまいりました。メンバーは私と熊吉君(奥さんです。)そして居候の熊五郎君の2+1名です。早朝より羽田におもむき熊五郎君をバックに押し込み一路、鹿児島へ。驚いたことに旅行会社からのバーコード付きの薄い紙切れが搭乗券代わりだなんて、
長生きはするもんだ。さて順調なフライトで鹿児島空港に到着。初めての空の旅、ご満悦の熊五郎君。(以下五郎でとおします。)

予約をしておいたレンタカーに乗りこみ我々夫婦と五郎の鹿児島旅行の始まり始まりー。目指すは和気神社と犬飼の滝。和気神社とは、その昔、道鏡というぼうさんが宇佐八幡宮の宮司と結託して嘘の神託をもって天皇になろうと画策しました、それを阻んだのが和気清麻呂公です。さすがに不審に思った朝廷の命を受け、和気清麻呂は宇佐八幡宮に赴き、一週間、斎戒して身を清め、正神がおかかりになり、先の神示が偽りであることを教えられ道鏡一派の野望をくじきます。天皇家が万世一系を貫けたのは和気清麿公のおかげです。そんな和気神社を一番最初に参拝いたしました。

 

狛犬は猪です。これは怒り狂った道鏡に追っ手を差しむけられた清麿公を猪が助けたという逸話によるものです。鳥居のすぐ脇に小屋があり本物の猪がおりました。五郎を網越しに近ずけると、かなり興奮していました。なかわるいんかなー?今でも和気清麿公は皇居のお堀端にある公園で皇室をお守りになっていらっしゃいます。参拝後、すぐそばにある、犬飼の滝を見学、ここは竜馬が新婚旅行で立ち寄ったそうです。この滝は駐車場から階段を降りていくんですが、結構長いんです。試しに数えたら200段有りました、苦しみを楽しみにかえなくては。滝壺の五郎は涼しい顔してますね、あたりまえです、自分で歩かないんだから。

さて次の目的地は霧島神宮です。こちらは天孫ニニギノミコトがお祀りされております。この国を靖国とたいらけくしろしめせ。高天原の神々より使命をうけて霧島連峰にある高千穂の峰に降りていらっしゃいました。有名な天孫降臨です。九州は大変に国魂の強い土地柄だそうです、車で走っていてもお寺は少なく神社が多いんです、おまけに国旗もよく目にしました。何故か霧島神宮では教育勅語をかってしまいました。
朝も早くお腹もすいたので温泉街にある食事処で地元の豚肉を使った石焼きビビンバをいただきました。ひつまぶし風で大変美味しかった。ただ駐車場が狭く車庫入れが冷や汗もんでした。降りたらバイクがすぐ後ろに停めてありました、全然気づいていなかったので間違いなくぶつけていたはずなんですが???
いよいよ天孫降臨の地、高千穂に向かいます。山の頂上までは登れませんので、麓にある霧島神宮跡で祝詞をとなえてきました。

この豊葦原瑞穂国がいつまでも平和で豊かな国でありますように。きっと皆さんは天孫降臨なんかお話の世界と思っていらっしゃるでしょうが私は本当にあったと信じています。誰がなんと言おうと天孫降臨はあったし、高天原もあるし、アマテラスオオミカミも実際にいらっしゃいます。私一人でもそう言い続けます。
さて この日の宿は霧島温泉にある「旅行人山荘」さんです。こじんまりした宿でしたが広い敷地をおもちになっていて散策コースとなっており貸し切りの露天風呂もございます。ホテル内には遊休スペースをかなり広くとっており、温泉宿というよりも品の良いリゾートホテルのようでした。図書室も立派でした。湯ノ華漂う温泉で沈みゆく夕陽を見ていると「アー、旅行はいいなー」とつくづく思います。熊吉君ありがとう。夕食は宴会場で郷土色豊かなお料理で大満足。給仕のおばちゃんに鹿児島弁を教えてもらいました。「ほんのこっちーうまかー」翌朝は6時30分に予約していた、貸し切り露天風呂一番人気の「赤松の湯」でひとっ風呂浴びました。寝転がって風呂に入っていますと僅か数メートル先を鹿の親子が散歩を楽しんでいます。本当に鹿が遊びにきた!残念ながら携帯は部屋に置いてきましたので写真は撮れませんでした。
たらふく朝食をいただいでこの日の目的地、鹿屋へ向かいます。先の大戦中、鹿屋は海軍航空隊の基地でした。戦争末期にはまだ二十歳前後の若者が、この地より特攻機に乗り沖縄めがけて散華いたしました。その数908名。現在は海上自衛隊の航空基地となっております。基地内には資料館があり旧海軍の展示品が飾らてあったりモニターで当時のフィルムを観たりできます。目玉はこれです!

日本の生んだ名戦闘機、ゼロ戦です。館内は撮影禁止ですが、ゼロだけは撮影可です。「永遠の0」という本があります、もうすぐ映画化されるそうです。特攻で亡くなられた英霊の遺書や遺品、写真も展示されています。ここで私は驚くべき遺品に廻り合いました。鍵は五郎です。話はかなり長くなるので次回にいたします。ゴメンナサイ。
夏の活動報告その3
9月3日ー4日と夏休みをいただきました。行く先はもちろん伊勢です。年に一度アマテラスオホミカミ様にご挨拶におうかがいいたします。
新幹線と近鉄電車で宇治山田に向かいますが松坂あたりから雲行きが怪しくなってきました、伊勢の方は真っ暗、こりゃ雨んなか参拝だなー、と思いました。自慢じゃありませんが過去数回の伊勢詣でも、函館、高千穂、阿蘇、出雲どこに行っても神社を参拝するときは必ず雨は上がり日がさします。ただし今回はチョット無理だなーと思いました。
が、宇治山田駅に着くとかなり小雨、になっています、外宮に着いた頃にはすっかり上がっていました。参拝の後、新しくできた遷宮館で神宮にまつわる展示品を鑑賞し、月夜宮へ。遷宮館にいる間はまた雨が激しく降りましたが月夜宮に行くときにはピタッとやみます、お月様にご挨拶を終え、いざ内宮へと足を向けたとたん「ザーッ」ときました。さすがに雨宿りできそうな場所を探します、「あったーここだー!」見ると食堂の看板が「外宮一望、日替わりランチ600円、山菜ご飯、鶏唐揚げ、煮物他。」
店に入り日替わりランチをお願いしました。外宮一望というけれど、確かに外宮は鳥居のあたりがチョコットしかみえないし、何だかやなよ・か・ん?さー出てきた定食は山菜ご飯なのに白いご飯「ごめんなさい山菜ご飯終わってしまったの。」まだ12時すぎたばかりだしお客さん他に一組しかいないのにおまけに鶏唐揚げ小指の先ほどくらい小さいし、煮物ってかぼちゃの千切りだし。
「このクソババー可愛い顔しやがって、俺たちをペテンにかけやがったなー!!」怒り心頭の私はテーブルをひっくり返し「こんな腐れ食堂二度とこねーぞ!」捨て台詞を吐きたい衝動を胸に味のしない定食をいただき内宮を目指しますがオットットこれはヤバイゼ大雨だ!
さすがに傘を買おうと走りますが店が見つかりません、バス停に行くともうすぐバスが来る時間、なんとか乗り込むとあの大雨が嘘みたいにおさまります、内宮に着くとなんと晴れ間が私達はみんなお日様の子、彦。女の子はお日様の娘、姫。これで納得。
御正宮といくつかの末社をお参りして、おはらい町へ、相変わらず凄い人出です。白鷹さんで清酒を一合、立ち飲みでいただき、宇治山田駅より鳥羽に向かいます。駅に着きますと迎えのマイクロバスに乗り石鏡温泉へGO!
靖国神社参拝について
本日、自民党の安倍ちゃんが、この時期に靖国に参拝してくれました。
これは大変意味深いことです、私は靖国、靖国と言い続けてきました。
敗戦後この邦はずいぶんと変わりました、しかし変わらなかったのが靖国です、もう皆さんも韓国、中国のやり方はよくおわかりでせう。
我が国の国益を害する国々が一番敵対視するのが靖国です。これは歴史問題をいつまでも政治手段として日米に楔を打ち込みまずは日本から料理しようという中国の戦略です。
私はあるところで中国外務省の作成した地図を見たことがありますが近い将来日本国はありません、日本自治州です。北海道は切り離されていました。
中国、韓国がいつまでも政治的に靖国を攻撃しますが、逆に言うと我々にとって一番大事なものなんです。従軍慰安婦、南京虐殺など歴史の歪曲の数々。もう一度歴史を検証して次期、衆議院選で本当にこの邦のことを考えている人物を国政におくりましょう。
安倍ちゃんは両国に対して自国の在り方を靖国参拝にて鮮明にしてくれました。ありがとう!
元町フードフェアーありがとうございました
さて、フードフェアーも無事終了。初日はものすごい人出でした。プラザから元町中華街駅まで人が並んだそうです。
途中、ご飯が無くなり、お並びになったお客様には大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございません。
続けて、夏の活動報告第2弾です。8月のお盆はうちの熊吉君も月曜日に休みをとれましたので観音崎にあるスパへ行きました。
スパだけでは物足りない!何か他にいいネタないかー?と調べたところ横須賀軍港クルーズが人気だそうで、早速予約の電話をいれますると、あいにく予約でいっぱいとのこと、butしかし当日売りもあるそうで私達は日頃の行いの良さを鑑み、乗れない訳がない!との確信のもと朝から横須賀を目指しましたが・・・連絡をすると「本日は強風の為、全便欠航となっております。」ですって!全便欠航だって?そりゃ結構じゃない、上等じゃない!!オシッ軍艦見れなきゃ乗ったるわい、そーです私達は軍艦に乗る事にしました。ハイ、一路三笠公園に「総員、かけあーし!」下の写真は戦艦三笠の士官連中が我々を迎えてくれた写真です。

おまけに東郷閣下まで艦内は日露戦争の資料、ジオラマ、戦艦三笠の生涯など大変興味深い展示品が数多くありました。
全て見て回るとかなりの時間がかかります。この後横須賀中央駅に行く途中、ホッピーの暖簾が目に入りました、そこは、た、ち、の、み。
まだ午前中だというのにホッピー片手の剛の者達で盛り上がっているではありませんか!おいらも混ぜてー!と言いたい私のかぼそい腕を熊吉君がグイグイ駅方向へ引っ張っていきます。これは次回のお楽しみにとっておこう。
京急で馬堀海岸へ行き、送迎バスで京急観音崎ホテルへ。スパはホテルの敷地にあります。遥か房総半島を望めるお風呂は気持ちがいいもんです。(ただ垣根の囲いがしてあるのでた立たないとみえまへん。)それでもやはりホテルさんが経営してらっしゃるだけあって、とても綺麗に保たれています。大広間で昼寝もできますよ。食事は観音崎京急ホテルさんのダイニングでいただきました。冷えた白ワインをキュッとやりながら美味しい料理と素晴らしい眺め。それと一番嬉しかったのが担当してくれたウエイターさんのサービスでした。多分、60才くらいの方でしたがあまり堅苦しくなく時折、話かけてくれたり昔の良きホテルマンという感じでした。
夏の活動報告
久々の勝手報告です。
今回は「夏の活動報告」7月9日月曜日は愛車ハーレーチョビットソン(原チャリ)で葉山、横須賀方面へプチツーリング!最初の目的地は観音崎にある走水神社へ、御祭神はヤマトタケルの命です。
この時私は鳥居の前に愛車を止めて鳥居をくぐりました、一人の女性とすれ違います、スラリと髪の毛の長いジーパン姿の日傘をさした女性でした。
私がご本殿で参拝をすませ休憩所で一服しようかと、そちらに目をやるとさっきの日傘の女性が座っています。さっき鳥居をくぐり帰って行った人です。何だろうもう一度参拝するのかと思っていたら、また本殿の方向へ歩いて行きました、こんな暑い日にお百度参りでもしてるのかな?と思いご本殿に目を向けるとその女性の姿はありません。その方が休憩所を出てほんの数秒後です、モーレツダッシュでどこかへ駆け抜けていったのでしょうか?日傘をさしながら!

上の写真はその直後に撮ったものです、写真の下半分が虹のかかっているようです、この時境内にいた鳥が一斉に一本の木に集まってきました。ヤマトタケル命が海を渡ろうとしましたが大いに荒れていて難渋していた時に、名前は忘れましたがある姫様がその身を投げ、海を鎮めたというお話が残っています。何だか不思議。
参拝のあと一路葉山を目指します。道がよく分かりませんので地図を買いましたがそれでも心配なので地元の高校生に聞いたところ親切に教えてくれました。おまけに「頑張ってください。」の一言も、みんないいやつだなー。
昼過ぎには葉山一色海岸に到着。この海岸は高校生のころから毎年必ずきています。御用邸の前に緑地があり松の木陰でビールを飲んでは昼寝をしたり本を読んだり、静かな一時を過ごせます。特に潮騒公園で夕陽を眺めながらのビールはまた格別。この日は運転があるのでノンアルコールで我慢。
家路につく前に「げんべい」でビーサンとTシャツを購入いたしました。
7月30日月曜日は明治天皇没後100年祭にいき、君が代を歌ってまいりました。

明治天皇100年祭
昨日はお休みでした。朝一番早起きして明治神宮に行ってきました。
あまり皆さんご存知ないかと思いますが7月30日は明治天皇が崩御なされて100年目にあたります。
神宮で明治天皇100年祭が執り行われました。天皇陛下からの御弊などなかなか見れる機会はありませんので暑いなかご本殿前にてその到着を待ちました。

その後宮司による祝詞奏上、大和舞、そして国歌奉唱。雅楽の伴奏?による国歌奉唱は初めてでしたがご年配の方々がうたわれる君が代は本当に深く静かで威厳に満ちたものでした。
その後、千鳥ケ淵の戦没者墓園で拝礼して、靖国を参拝いたしました。靖国は神道ですが、千鳥ケ淵はどなたでも慰霊できるとおもいます。
この墓園は先の大戦て、海外で亡くなられた軍人、軍属、一般邦人の御遺骨のうちご家族にお渡し出来なかった35万柱以上の御遺骨が納められております施設です、靖国はチョットというかたもよろしければ是非是非、お訪ねいただき御拝礼いただけたらと思います。
ロンドンドン
さあて、イヨイヨ、ロンドンオリンピックです。
民放にて放送されていますCMで各局の女性アナウンサーが赤い学ランを着て「ロンドンロンドン!」と連呼していますが、たぶん私と同世代の健全な男子はキャバレーロンドンのCMを思い起こした方が多くいらっしゃたのでは、ないかと?
キャバレーロンドンはピンサロでした。まだ野毛の入り口にあるのかなー?当時はテレビのコマーシャルでこんなあんばいにやってました。
「愉快なロンドン楽しいロンドン、ロンドンーロンドンー」とバッキンガム宮殿の衛兵のようなミニスカガールがおどっていたCMでした。
それが今、よみがえりました!これはパロディーですか?
熊吉君珍道中
4月に連休をいただき、出雲に旅行にいってまいりました。伊勢神宮はここのところ毎年参拝しておりますが、出雲大社は初めてです、期待に胸膨らませ空路、米子空港に向かいました。
そこでレンタカーを借り「チャンチャカチャーン」一泊二日豪華山陰旅行の幕開けです。
が、最初からつまづきます、車は10年に一度乗るか乗らないかの私です、ナビの使い方がサッパリわかりません結局スタッフの女の子を呼んで一から教えてもらいました、気を取り直して出発進行!
先ずは事代主様がお祀りされている美保神社に向かいました。港町にあるしずかなお社でした、参拝が終わると曇り空から陽がさしてきました。「ありがたい!」思わず心の中で叫びます。
参拝をすませ美保灯台に行きました。いつの間にか晴天!素晴らしい景色を眺め灯台守が昔、暮らしていた官舎を見学、天井の高い立派な建物でした、かなりの広さで今はレストランになっています、大きな手造りのステレオが印象的でした。
この後は宍道湖経由で出雲大社を目指します。街中を通っても行けますがあえて日本海側を選びました、車窓から見える海はなんとコバルトブルー!日本海というと海が暗い色のイメージでしたが沖縄のようでした、また山あいに入るとまだ桜が咲いていて花吹雪の中最高のドライブ!途中、佐田神社を参拝、御祭神はスサノオ様です。本音を言いますとあまり私との相性はよくありませんが「二日間この地にお世話になります、よろしくお願いします。」とご挨拶いたしました、が、その後暫くはナビがトンチンカンな案内を繰り返します、やはり私はスサノオ様には嫌われているみたい。
そんなこんなで宍道湖沿いを走り、いよいよ出雲大社に到着、残念なことにご本殿は遷宮の為仮殿を参拝いたしました。彼の地に着きまして初めてしりましたが有名な大しめ縄はご本殿でなく神楽殿にはられているものでした、皆さんご存知でしたか?それと驚いたのは境内のポールに掲げられた、国旗の大きなこと!あんなに大きな国旗一体何人がかり上げるのかなーと思っていたら電動でした。
ここまでくるとお腹はペコペコ、お目当ての出雲蕎麦をいただきます。三段重ねのお蕎麦、上から順に汁を足しながらいただきました。本当はここで生ビールをグビーットやるんですが、運転があるのでここは我慢!大社を後にしてすぐそばにある島根県立古代出雲歴史博物館に入館、出雲大社の模型、数多くの銅鐸など見所満載、館内で働く方々もよく教育されており、ボランティアの方も親切に説明してくださいました。
ホテルは宍道湖畔にとりました。途中、神在祭の神迎えの稲佐浜に立ち寄り宿を目指します。しかし予定時間を少しオーバーしてしまいました、夕暮れ時がせまっています、そう、宍道湖の夕暮れを見ないわけにはいきません、ギリギリに県立美術館に車を止めて湖畔に出ますとカメラを構えた観光客がちらりほらりといらっしゃいます。
あーん缶ビールのみたいよーん、と思いつつ少しずつ湖に姿を落としていく夕暮れを眺めておりました。

やっとホテルに入りましたが喉の欲求を抑えきれずに缶ビールをグビーといただきました。宍道湖を眺めながら湯に浸かり旅の疲れを癒します。部屋で少し休んでから松江の街にくりだしました、夕食はついてませんので美味そうな居酒屋を捜します、フロントの若くて可愛い姉ちゃんに飲み屋街を教えてもらい、熊吉君といざー出陣!この時ばかりは五感研ぎ澄まし獲物を捜します、色々な店を物色しておりますと何やら賑わっている店が目に入りました、屋号をみると、そのな・ま・え・は!なんと!!「くま吉」

神の悪戯か、はたまたお導きか?私の相棒と同じ名の店が山陰は松江にありました!しかし、ここにきて五感から六感まで飛んでしまった私達はこの店をスルーして先へと進みます、途中、路地を右に曲がると「大衆割烹」の暖簾が目に入りました、「ここだー!」熊吉君を促し暖簾をくぐりますと右側がカウンター左側と奥は個室になっておりなかなかステキな造りでした、ご主人と奥さん、娘さん?で切り盛りしていらっしゃてます。白魚の天ぷら、岩がき、のどくろの一夜干し、生ビールに地酒、九州の焼酎、締めにあごの茶漬け、アサリ雑炊をいただきました、ご飯についてきた漬物の豪華なこと!特に壱岐さんの大きな岩がきは本当にに新鮮であまくてプリプリ、のどくろの一夜干しはたぶん700-800円位でした、あんまり美味いんで翌日物産館で買おうとおもったら1000円以上してました、一体どんな仕入れしてんでしょ?二人で5,6杯はのんで7000円位でした、。
イイ気分で川沿いを歩き途中で歴史のありそうな珈琲屋さんで深みのある珈琲とおいしいケーキをいただき、無事ホテルに帰還。ぐっすりとやすみました。続きはまた。
靖国神社
さて本日の朝刊の記事を読み、急ぎ勝手報告に寄稿いたしました。
新聞によりますと、中国人の男が靖国神社の桜の木にかけられていたプラスチック製のプレートを外し足で踏みつけて壊したそうです。それも中国大使館から所轄の麹町署にこの逮捕を公表しないように要請していたとのこと。
実はこのプレートは桜の種類が書いてあるのではありません、先の大戦で戦われた部隊名が記されております、南方や支那で戦われた方々が亡くなった戦友の為にお植えになったものです。勿論、特攻隊のものもございます。「散る桜、残る桜も散る桜。」そんな思いの彼らが亡き戦友への鎮魂の為に植えられた桜の木が境内には何本もあるんです。それを剥がし足で踏みにじりました。
人として絶対にしてはならないことがあります。靖国神社はもとは招魂社といいました、初めは長州藩の戦死者をお祀りしておりましたがその後国事でたおれた人々をお祀りするようになり、明治天皇が靖国神社と命名なされました。靖国とは古事記にもありますように平和で豊かな国という意味がこめられております。時来、戊辰戦争、西南の役、日清、日露、支那事変、第一次世界大戦、太平洋戦争で尊い命の役捧げた同胞が英霊として祀られております。特にあの日露戦争で負けていたとしたら、多分この国は亡かったかも知れません、明治維新後、近代化、富国強兵に取り組み僅か37年で当事世界最強と言われたロシアに国の存亡をかけて挑みました。
3年間に渡り放映され昨年に終了いたしました、「坂の上の雲」は記憶に新しいところです、モッ君が秋山真之を好演しておりました。沖縄のひめゆり部隊の女学生、樺太の真岡で終戦を迎えたにもかかわらず日ソ中立条約を破棄し火事場泥棒のように攻め込んできたソ連軍に包囲されながら最後まで電話交換手としてその使命を全うし、最後に「皆さんさようなら」の声を残し亡くなった若き乙女達そういう方々も靖国にまつられていらっしゃいます。
それと靖国を嫌悪する方々、マスコミも含め、左翼系の学者、評論家がよく問題にする戦争犯罪人が合祀されているのがけしからんとから他の施設をつくれ!などと馬鹿な戯言ことよくいってますが、まずこの国に戦争犯罪人はおりません、サンフランシスコ講和会議の戦勝国の了解のもと国家で与野党一致で免罪としました、それとあの極東軍事裁判自体も全く訳のわからない裁判で、事後法において戦勝国が敗戦国を裁きました、また裁判官が全て戦勝国からだされております。注、弁護人の中には日本人、アメリカ人もおりました。
彼らは一生懸命に被告人の為に働いてくれたそうです。ただ一人被告人を全員無罪とした判事がおりました、インド人のパル判事です、12人の判事の中で彼がたった一人の国際法学者でありました。それと当事の戦勝国の中に中国共産党は入っていません、中国国民党が日本の交渉相手です!なぜ靖国が問題視されるようになったかと言いますとソ連の弱体化に伴って1980年代半ばから対日戦略を友好政策から強硬策へと切り替えましたその辺りから中曽根の公式参拝は戦犯が祀られているからけしからん、南京大虐殺記念館などなどがでてきました、98年には江沢民の指導によって中国の国益の為に経済力豊かな日本をコントロールするため永遠に歴史問題を日本に突き付けることを対日政策としました。
続きはまた。
震災後のラジオ
あの震災のあと、お店のBGMはやめ、しばらくの間ラジオをかけていました。勿論、保守バリバリの私デスから「日本放送」です。
あの時番組の中でかかった曲、「上を向いて歩こう」とか「夜明けの歌」など昭和歌謡の名曲がながれますと、自分の小さかった頃をおもいだし、あの頃がひどく懐かしくおもいだされました。あと「アンパンマンの歌」も初めて歌詞の内容をしりましたが正義を守ろう!みたいでよかったです。
あとでしりましたが小学生の頃よく歌っていたぼーくらはみんないーきているー、いきーているからわらうんだー手ーのひらをー太陽にすかしてみーれーばーという歌がありましたが同じ作詞者でありました。
その番組の中で、食料品の買い占めなどが起こりますと、パーソナリティーの上柳昌彦さんが「皆さん、私達は今、試されています、慎重に行動してください。」と何度も視聴者に呼び掛けていたのが印象的でした。
震災について(最終回)
さて、先の震災について最終回です。
震災直後、昭和47年築の集合住宅の我が家の無事とたった一つ贅沢品液晶テレビの健在を確認した私は、いったい被災地はどうなっているのかとテレビをつけてみますと、その画面に息をのみました。確か茨城県の鹿島沖だったと思いますが大きな渦巻きが二つまさにうごめいているかのようでした。私にはその渦が巨大な生き物に見えました、あーこれは自然災害等ではなく「とてつもなく大きな意思」によるものだと感じました、と同時に大変多くの人々が亡くなる。その画面を見ているうちに涙がぼろぼろでてきて止まりません、知らないうちに神棚の前で手をあわせ「もう一度日本人は一生懸命やりますから、どうかこれ以上陛下の民草の命をとらないで下さい。」子供がお母さんにすがるように泣きながらお願いしました。
しかし2万人近くの人々が犠牲になりました。あんまりこの国がおかしくなりすぎました、自分なりに何かできることはないかと思い、旗日には国旗を掲げたり心あるお客様に国旗を差し上げたり、靖国神社を紹介させていただいたり、天皇家、また国土の不思議さや自然の素晴らしさ、そして小沢氏をはじめとする民主党の危険性(一部大変まともな方もいらっしゃいます。)などをホームページ上にて書かせていただきました。
繰り返しになりますが宮崎県の鶏インフルエンザ、牛口啼疫、新萌岳の噴火、クライストチャーチでの地震。そして今回の震災。すべては無関係ではないような気がします。ですから私は妻と一緒に高千穂に行き自分なりに皇祖皇宗の神々にお詫びいたしました。
その翌々日にあの大震災でした。
申し上げておきますが私はいかなる宗教団体、政治団体に関係している者ではありません。
ただ4年ほど前にある体験、世間では超常現象と言われておりますが、この世といいますか、宇宙といいますか、私達の回りにはとてつもなく大きな意思が働いていると感じるようになりました。神様といっても良いでしょう。
いまでも不思議なものを見たり聞こえたり科学では説明出来ない体験は続いております。あれ?これは一体どういうことなんだ?そんな時にはかならず教材が現れます。少しずつ何かを学べ。
そう言われてるきがします。
こんな話をいたしますと私がいかにもストイックで品行方正な人間かと思われるかもしれませんが実体は全く逆。
毎日、安酒をあおりタバコもやめられず結婚前は福富町あたりでロシアだルーマニアだと金もないのに女のケツばかり追いかけて、懐があったかけりゃ東京のキャバレーにまっしぐら!
「ハリウッド」、「白い薔薇」なんかよくかよってました。
それでも国を思う気持ちは人二倍強かったとオモイマス。
では、また。
年末年始
さーて年末は一年頑張って最後のお楽しみエイチャンのライブ武道館です!
今回も最終日、月曜日、当店のお休み日、神様に感謝感謝。
メンバーはうちの熊吉くん、パートさんの森住親子のパンパカパーン4人組でした。昨年は入場の際の酒気帯び検査で危なく引っ掛かりそうになりましたので今年は100%シラフででかけました。
あいもかわらずゴロマブイ人相のおじさん達で武道館は一杯です!
約2時間矢沢永吉62才の熱唱を味わってきました。かく言う私はいかにもズーット武道館に足を運んでるように皆さんお思いになりますでしょうが行き始めたのはここ12年くらいです、勿論矢沢の曲は最初のキャロルの頃から聴いてましたから矢沢歴38年を数えます。正直いって曲は素晴らしかったんですがあの頃のエイチャンはあまり好きではありませんでした、鼻っ柱が強すぎてお公家育ちの?私には好感が持てませんでしたね。またライブも戦闘的な方が多く行きたいともおもいませんでした。
なぜ武道館に行くようになったかというとエイチャンが35億の借金をくらってからです。丁度あの頃元町プラザも大変厳しい時で3階に残った店は僅かに4店舗でした本来ならば12店舗なければいけないフロアーはガラガラでした当然店の売上も激減して毎日胃薬をのみながらの営業デス。そんな時にエイチャンがオーストラリアで詐欺にあい35億の借金が残ったとのニュース。後日談で彼言ってましたが実際三日間この世の中に矢沢永吉は存在しなかったそうです、それくらいさすがのエイチャンもまいった!と言ってました。それから自分のブレーンを呼び検討したところ「ボスなんとかなりそうです。」ということになり小さなライブハウスを回ったり飲酒の入場を断ったりして女性フアンを開拓したりしてついに9年かけて返済したそうです。
当時の私としては「矢沢の借金に比べたらうちの借金なんか可愛いもんだ、よし、借金大魔王のコンサートでも行くか!」てな感じで武道館へでかけました。初期の矢沢フアンに高学歴なんかいませんそんな彼らが40になり50になりこの不況のなかでもがいているわたくし達にとってエイチャンが本当に心のより所になっています、矢沢が頑張ってるんだから俺もやんなきゃ!そんな思いで年に一度武道館にいくわけあり丼です。さてエイチャンは今年デビュー40周年を迎えます、チヨットビックリw(°0°)wしたのが演歌の大御所北島のサブチャンが50周年だそうですサブチャンはもっと前から歌っていたような気がしましたが、なにはともあれまた今年一年エイチャンからもらった元気で生き抜きます!
「永ちゃん、愛してるゼー」


プロ野球
さてプロ野球もC.S.私はスワローズを応援してます。生まれてから40年以上ジャイアンツフアンデス。子供の頃YGマークの野球帽、下着ではありません、を365日間かぶっていました。が今季ヤクルトになんとしても日本一になっていただきたい!
それは3年前だと思いますがたまたまロッテとの交流戦のチケットがてにはいりました、雨が降り一塁側のスタンドはガラガラ応援団も元気がなく見ていてかわいそうなくらいでした。イニングの合間をぬって下の喫煙所にタバコを吸いにおりましたところすぐ横で若い女の子達が球場ないのゴミを集積いたしておりました、何人かのリーダーのもとキビキビとうら若き乙女達がその指示に「ハイッ、ハイッ」と返事をしながら働く姿は大変清々しい映像でした。
黒澤明監督の作品で「姿三四朗」、こんなシーンがあります、他流試合を控えた三四朗と先生が勝利を祈願しに神社に参りましたところ神前で腰を屈め一心に祈っている若い娘を見かけます、その姿がとても美しく二人の目に映ったのでしょう、「三四朗、今日は良いものをみたな。」「はい、先生!」感動した二人はお参りもそこそこに引き揚げます。そうです私も良いものを見ました。良い子の返事は「ハイッ」ですネ!それだけではありません、4-5人の球場職員が歩いてました、そのうちの一人がすれ違うお客さん皆に「ありがとうございます、ありがとうございます。」と頭を下げながら歩いてました、主力選手を他球団に引き抜かれホームゲームなのにロッテフアンが圧倒的に多い、そんななかで雨のなか球場に足を運んでくれたお客さんに感謝してか当たり前のようにどのグームでもそうしているのかわかりませんがこれも良いものを見たと感動いたしました。
そしてその翌年、タイガースフアンの熊吉君と神宮球場に再度観戦にいきました、またまた雨です、この時も阪神フアンのほうが圧倒的に多くヤクルトフアンはパラパラでした。しかしヤクルトの好機になると外野席に陣取っている一団から「ワッショイ!ワッショイ!」と応援が始まります、私達は一塁側内野席ですが外野席の応援が大きな鉄の塊のように押し寄せてきます、たぶん2-30人の一団ですがトラキチに負けないくらいの応援でした。そう、気です、人数は少ないけれども彼らの気が球場内を吹き抜けたんです。今季の好成績もそんな彼らが後押ししたんです!頑張れヤクルトスワローズ!!
民主党
本日、海江田氏を小沢氏が応援するとのニュースをみみにしました。海江田氏が党首になったあかつきにわ、党員資格停止を解除するとのこと、今から20年の昔テレビにてバブルを煽った奴がいつのまにか代議士になりかの大震災では現場の消防士を処分するとが鳴りあげた奴が小沢の手をかり党首になりたいそうです。被災地のことなどなにも考えてはいません!小沢は民意によって裁かれようとしています。あまりこういう話しはお客様にしないでと常連様に叱られますが、この国がおかしくなるんだったらうちの店が潰れたってかまいません!邦なくして仕事なし人もなしです。
これを喜んでいるのはどこの国ですかー今回はいわなくてもいいことを申し上げました。でも本当ににこの国ガヤバイ時間だとおもいます。
続き
さてずいぶんと間が空きましたが前回の続きです。先の衆議院選で民主党が大勝したとき、私は妻の熊吉君に言いました、「今、笑っているのは 中国の胡錦濤だよ」ここまでが前回でした。そうして数ヶ月後のある朝、まだ床に居る私に熊吉君が話しかけます、「お父さん、本当に胡錦濤が笑っているよ!」テレビの画面を見ると輿石氏を団長とした民主党の大訪中団のニュースでした。当選したばかりの一年生議員が胡錦濤氏と仲良く記念撮影をしている画像でした、自民党の中にも親中派の方々はいらっしゃいますので写真をとるくらいどうということはありません、問題なのはその時の小沢氏の中国首脳に向けた挨拶です、彼はこう言い放ちました、「私はまだ一野戦軍の司令官です、我々の戦いはこれからであります。」日本に核を向け、反日教育を徹底し我が国の資源領土を掠め取ろうとしている国のリーダーの前で日本の与党の幹事長がこの演説です。この後次代の主席とみなされる習近平氏を宮内庁を恫喝しハクを付けさせるためか前回訪中のお礼か天皇陛下を政治に利用いたしました。彼は韓国でも自国民(もちろん日本人です。)を小馬鹿にしたような発言をしております、興味のある方はUチューブで御覧になれます。そして鳩山首相は迷言を繰り返し日米間に楔を打ち込み続けました、普天間問題はこじれにこじれました。そうです彼は彼の仕事を成し遂げたんです。
人心は乱れまつりごとの舞台には天狗の真打ち登場となってしまいました。
「危うし日本!」本当にそう思いました、その後鳩山氏は首相を辞め小沢氏は民意によって裁かれようとしています。その後のこの国の迷走は皆様ご承知のとおりです。
なんだか不思議と喉が乾いてきたのでビールを飲むことにしました、また来週お会いしましょう。
今回の震災でおもうこと
高校を出て専門学校にはいり希望していた、旅行会社に入社し営業マンとして働きました。
勤務先は埼玉の大宮でした右も左も分からない1年生が毎日毎日名刺1枚頼りの飛び込みセールです。なんの知識もない若造の話を聞いてくれる物好きはそうはいらっしゃいません。ましてや旅行を任せてくれるなんて本当にごくごく僅かの会社さんでした。
それでも何ヵ月かたちますとポツリポツリと仕事がはいり始めます、仕事が入れば添乗員として同行いたします、主に会社の慰安旅行でしたから鬼怒川、塩原、熱海、伊東など1泊2日の日程でした。宴会になれば芸者やコンパニオンが場を盛り上げて歌あり踊りありの皆さんはめを外して大騒ぎです、それはそれは楽しいもんでした会社が一つの家族みたいな時代だったと思います。もちろん自分がお世話になった営業所も同様で所長以下女子も含めてしょっちゅう飲みに皆で飲みに行ってました。酒の肴は仕事の話です先輩にグチを聴いてもらったり叱られたり褒められたりと所内では言えない話が交わされます、これが1番のガス抜きでした。仕事で困った事しょっちゅうでしたが会社に行くのがイヤになることはありませんでした。まだ昭和の空気です。
その後会社を辞めしばらくニュージーランドで暮らしました。人々は質素で美しい自然に囲まれたなかでの生活はなにが裕福で幸せなのかを教えてくれました。
帰国した直後N.Z.の友達、日本人、と都内で食事をして回転式の駐車場で友人の中古のシビックを待っているあいだ、1台1台車がでてきます、それがベンツ、B.M.W.等々超高級車ばかり、それを待っているのがブランド品に身を包ん20代の若者達、私と友人は思わず顔を見合せました、やっぱりこの国ヘンだよね、1990年頃でした。そうしてこの頃に私にとって衝撃的な事件が2つ起こります、最初は東京の綾瀬で起こった少年等による女子高生コンクリート詰め殺人事件です。そしてオウム真理教の地下鉄サリン事件です。このあたりかりから本格的的に日本人の劣化が表面化してきたようににおもわれます。それ以前にも金属バット殺人事件や警察官による女子大生殺人事件もありましたが・・・新聞記事で親が子供に、子供が親に手をかける事件は驚きに値しなくなってきました。そして児童ポルノ、最初はずいぶんと悪い組織があるんだなと憤慨しておりました、が、ある新聞記事を読んで愕然とします、親がお金欲しさに子供を差し出す?!まさに自己の欲求のためには手段をえらばす、日本人もここまで落ちたのか。怒りを越えて悲しくなります。
政治も迷走を繰り返します小泉さんの後、阿部、福田、麻生とまるで日帰りランチよろしくコロコロと首相が代わりました。一国の政治はその民度を反映すると言われます、そうこうしているうちに民主党の登場となりました。子供手当て、事業仕分け、外国人に参政権、夫婦別姓等々一見耳あたりの良い政策は日本の国力を削ぎその文化を無き物にしようとするものです、先の衆議院選で民主党が大勝した時に私は妻に言いました。今、一番大笑いしているのは中国の胡錦濤だよ。
そろそろ本日抜歯したところが傷んできました。
また次回ごきげんよう。
東日本大震災について
今回は先週の九州旅行のご報告をするはずでしたがこの度の大震災について思うことあり、内容を変更させていただきこの未曾有の惨事について述べさせていただきます。
日本は先の大戦に負け60余年を過ぎました。主に米国の主導のもと民主国家として国際社会の一員と復帰しその後の経済復興はまさにそう世界の奇跡とよばれました。
そんなことは私が偉そうなことをいわなくとも皆様ご周知の事実です。それもこれも日本一人で成し遂げたものではありませんアメリカという世界一の用心棒がいたからです、それとこの国の人々の勤勉性とか貧しくとも心豊かにあろうとする戦前の価値感が作用していたと思います。
そうして私の父もそうですが家族のために一生懸命働いてくれました。私の実家板橋でしたが家の前に広美荘というアパートがありました。ターチャンという年下のともだちがおりましたがかれらは多分6畳一間にすんでいとおもいます。そのうちに郊外に一軒家を買い引っ越していきました。貧しくともそれなりに一つの仕事を真面目に続けていればなんとかなった時代でした。
それが昭和40年代ごろでした。そうして今からおもえば昭和で一番無難な50年代にはいっていきます。まだ私は中学から高校の頃でした、中学の頃はサッカー部でしたがまだ先輩後輩のけじめが厳しく今からおもえば戦前戦中の名残がまだまだ残っておりました。
練習前練習後には必ずグラウンドに「したっ!」と挨拶をします。もちろん先輩にあえば街中でも校内でも大きな声で「チワース!」と挨拶をします、先輩の機嫌が悪いとヤキがはいりました。もちろん殴る蹴るです。まだ13歳ー15歳の話です。あんまりひどいときには板橋警察がはいりました。それでも臨時ノ父兄会ぐらいあったくらいでたいしたおとがめはありません。まだあの頃は戦前生まれの親御さんたちで先輩が後輩にヤキヲ入れるくらいたいした問題ではなかったみたいです。まだ小さなころから、縦と横の社会を幼稚ながらたたきこまれました。
 さて今回はながくなります。またつぎは次回に。それと仲間内の連絡です。岩手のガンチャン生きてました!あの頃「ソウルトレイン」に集っていた仲間達、そして松島病棟の皆様、ガンキチこと岩間志津子は健在でした!家は床上浸水したそうですが家族皆無事で釜石の病院で奮戦しております。本当に嬉しい声を聞かせてもらいました。頑張れがんきち!頑張れ東北、茨城!
おすすめの日本酒
本当に寒い日が続きます。
先日、東京駅の駅中見学に行ってまいりました。
そこの酒屋さんで選んだ日本酒を紹介致します。
燗にていけるお酒が今回のテーマ。
是非三日坊主でお試し下さい。

諏訪泉(純米・島根県)
ぬるめの燗でよし  630円
ひこ孫(純米・埼玉県)
どうしても辛口でという貴方に  683円
菊姫山廃仕込(純米・石川県)
旨みがしっかりと  683円
鮪のけんちゃん
三日坊主といえば鮪、鮪といえば三日坊主というぐらい、
うちの鮪はよくでます!
漬け丼、焼き鮪ネギダレ丼などなど今や当店の看板メニューと
なりました。
それもこれもこの写真の男、横浜中央市場、
鮪専門店八丁軍石川のけんちゃんが、頑張ってくれるからです。
かれとはうちが市場で鮪を買うようになってから、
かれこれ17年近くの付き合いになります。
国産の生鮪にこだわりをもち「鮪屋は男の仕事です!」
と言い切る貴男は三日坊主の宝物です。
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